東海道歩き旅、途中でやめた 三嶋静岡突入編!

東海道歩き旅、途中でやめた 三嶋静岡突入編!

さて最後になると思う章への突入です。何分、16年も前のことなので記憶が曖昧なのはご容赦下さい。その代り印象というか、その頃の気分なんかでお伝えしたいと思います。

その頃、20代後半は希望と悩みがスピードボールの様にミックスされ、下降上昇を繰り返す毎日だった気がします。大きな野望と自分自身の惨めさと、それが入れ替わり立ち替わり体に入ってくる様なとてもアンビバレンツな日々を過ごしていました。

旅の途中でも同じです。最初の500mは気持ちよくこの世の中が青い空と緑だけで満ち溢れているような思い、次の500mはこの先行きの不安と何にもすがる術がなく心臓とみぞおちの辺りが痛くなるのに必死に堪える様な行程。そんな天国地獄行きを繰り返しながら歩き続けていました。とくに静岡に入ってからは初めて訪れる場所ばかり、さらに神奈川県民からすると、いつも意識が向いていた大都会東京と逆の方面に車ではなく歩きで入っていくというのはとても新鮮と同時に、どこか違う土地に入っていくという感覚がありました。

突然子供ができた、という知らせを得て始めた東海道歩き旅ですが、子供が生まれるということは男子にとって何の実感もなく、お腹が大きくなる訳でも、どこか痛くなる訳でもない、それが罪悪感の様に自分の体を痛めつけなくてはフェアではないのではないかという感覚もあり、旅に出たわけです。もしかしたら有り余る衝動や何をしたら良いのかわからない思いをぶつけただけかも知れません。

静岡というのは神奈川県から見るとととても穏やかな土地に写ります。なんだか暖かくて街ものんびり、車もゆっくりと走っているような感じ。みかんと茶畑のお国柄は今もあるような気がします。千本松原では松林の中を歩いてみたり、地元のおじさんと話してみたり、海と山が迫ってくる温暖な気候は日本で一番の南国リゾートなのではと今でも思います(沖縄を除いて)。一度、鎌倉で日本全国を放浪しているというおじさんと、駅の地下通路で話したことがあり、そのおじさんも九州よりも実は静岡が一番温暖で過ごしやすいんだと言っていたことを思い出します。

静岡を歩いていくのは楽しい時間でした。海の幸が安く食べられ、海沿いを歩いていくと何百年も前から続く波音が聞こえ右手には富士の山、海の塩気を含んだ空気が街中まで漂ってきている気がします。

そんな静岡の最終ゴール地点(自ずとそうなりました)は焼津温泉センターという場所。あるき旅にも慣れ、一日40km以上を歩いていたと思います。しかし、そんな旅に慣れぬ体はどこか変調をきたし、足には大きな水ぶくれが出来、水ぶくれが靴の中で傷み、歩くペースが途端に落ちていきます。どこかで休みを取らなくてはいけない、これ以上歩くことは出来ない。体がそう言っていました。江戸時代の東海道中なら、どこか宿の旅籠で休みを取るのでしょうが、現代日本にはそんな施設も東海道を歩く御仁もおりません。さて現代に安くて体が癒せる場所はどこだろう?ビジネスホテルはなんとなく無味乾燥で嫌だと思い、探しますと温泉センター、いわゆる温泉センター、ほかに何と言っていいいのかわかりませんが、そんな場所がありました。焼津の駅前、橋の側だったと記憶します。

歩き疲れた体には安く入れる温泉と安心して寝れる場所があることは非常に有り難いことです。日本人の体が自然に温泉を欲していると感じました。疲れたら温泉、この一言があるだけでどんな重労働にも堪えられる日本人とはそんな民族な気がしてなりません。心の故郷、温泉。ここにそれがありました。

細かなことは覚えていませんが、その場所は「カラオケ」と「おばさん」と「温泉」だった気がします。温泉に入り、マッサージチェアーでくつろぎ、浴衣で宴会場の様な場所に行くと、おじ様、おば様方が真っ昼間から舞台の上でカラオケを歌っている。そんな場所だったと思います。温泉に入り、ビールを飲み、ツマミを食う、宴会場からは演歌が流れる。これ以上ない極楽浄土が静岡にありました。おばさまに足の水ぶくれを見せ、驚かれました。これは1週間はもう歩けないね、ゆっくりしていきな。みたいなことを言われ、そこで全てが終わったことを悟りました。ここが終着点なんだ、現時点では、と。

その後大阪までの旅は歩きを諦め、電車という明治の時代に始まり、近代日本を支え続けた素晴らしい乗り物に身を委ね、大阪千里に住む弟の家までたどり着いた時にはすっかり平成の時代の心に舞い戻り、文明人を気取り、現代の若者の心に戻っていました。電車のスピードと揺れがそうさせたのでしょうか。歩いていた時に感じた東海道中膝栗毛の世界はどこかに失せてしまいました。

大阪に向かう東海道線の中で、同じボックス席に座った妙齢の御婦人に5000円を貰ったことが未だに何故なのかわかりません。この旅が終わりに向かう途中でこの御婦人に頂いた5000円が何か意味があることなのか、それともただ渡しただけなのか。それとも私自身が発していた雰囲気が異常なもので、5000円をこいつに上げなくてはいけないと思わせたのかは未だに分かりません。