アップルを救い 歴史に封印された男 Apple初代社長 マイケル・スコット

アップルを救い 歴史に封印された男 Apple初代社長 マイケル・スコット

こんにちは。Macフリーク タマオです!
今回はむか〜しのアップルの話しですよ!

初期のアップルものの本は面白い。僕的おすすめ。

これまで僕は色々なAppleやスティーブ・ジョブズ関連の本を読み漁ってきましたが、最近読んだ「スティーブス」という漫画で新たな発見がありましたよ。
この本、漫画と侮るなかれ、様々な文献を調べ尽くし専門家まで関わって書かれたそうで、知られていないエピソードも散りばめられ初期のアップルと若いジョブスがどれだけトンデモない人間だったかを知るにはうってつけです。
ジャンプ的格闘漫画ノリでジョブスが現実歪曲フィールドを駆使しゲイツなどの敵に挑みます(笑)。その中で今までほとんど描かれる事の無かったアップル初代社長、マイケル・スコットの話が色々載っていましたよ。

あと僕的にはオススメなのは、青空文庫の創始者、故富田倫生さんの書かれた「パソコン創世記」こちらはアップルだけではなく日本を含めたパソコン出現前後の歴史や、60年安保やヤマギシズムを含めた思想とパソコン思想を絡めた考察が秀逸でちょっとボリュームありますがすごく面白くてオススメ。
青空文庫で無料で読めます。

ちょっと話しが飛んでしまいました、そうそうApple初代社長のマイケル・スコットの話しでしたね。

何故かネット界では封印された存在のマイケル・スコット

このマイケル・スコットさん、マイク・スコットとも書かれてる本もあるんですが、ネットで検索しても恐ろしい程何も情報が出てこない!
日本のウィキペディアにも載ってませんし、英語のウィキペディアもちょこっと、ジョブスと折り合いが悪かった程度の情報しかありません。
あの世界企業、アップルの初代社長ともあろう人物がこんなにもネット界から封印されてるってなんか不思議ですよね。
ネット界ではジョブスとは険悪だったとかアップルを辞める直前情緒不安定になり、自分と一緒に大量の人員を解雇してやめたとかネガティブな情報しかありません。

本当にそんなひどい社長だったのでしょうか?
色々調べたら全く違っていましたよ!
私が素晴らしき漢(おとこ)の中の漢。アップル初代社長ー
本当の姿のマイケル・スコットの話しをしましょう!!

マイケル・スコットがアップル初代社長になった経緯

スティーブ・ジョブズと天才プログラマーのスティーブ・ウォズニアックが出会い、最初は電話タダがけ機など作り遊びの延長の付き合いでしたが、ウォズが誰でも手に入れられる汎用的な部品を使ってTVに写せるコンピュータを趣味で作り上げてしまい、それを目にしたジョブスが誰にでも使える個人用のコンピュータを作って世界を革命しよう!と開眼してしまいアップルは始まります。

アップルとして初めての製品、Apple Iは基盤のみのマニアックなコンピューターでごく少数しか販売できなかったものの、確かな手応えを感じたジョブスは本格的に動き始めます。
そしてアップルをきちんとした会社にして一般のマーケットに売る為にはどうしたら良いのかと考え色々奔走します。
ビジネスの事は何も知らない貧乏な若者でしたが行動力だけはありました。
コンピュータ界の有名人の家や会社に押しかけ俺達に投資しろと迫りますが、まぁ普通の人は相手にもしません。
でも数多く当たってるうちに運良く紹介されたのが、
悠々自適に株の配当で暮らす若き資産家のマイク・マークラでした。

インド帰りで完全に乞食のようなジョブスはのちに現実歪曲フィールドと言われる迫真のプレゼンテーション行います。
「俺達の考えたコンピュータを大々的に世の中に売れば世界は変わる!!!」
マークラはジョブスのアイディアとウォズニアックの技術力に心を動かされ資金援助を約束し、アップル4番目のメンバーとしてアップルに参加します。
(3番目のロナルド・ウェインは法人化する前にジョブスといたら精神的にしんどすぎると離脱)

そしてアップルはマークラという知将を得て1977年1月に正式に会社となりました。

マークラは考えます。
とりあえずこのジョブスをなんとかしなければアップルに未来はない。

この頃のジョブスは長髪でヒゲぼうぼう。ボロボロのジーンズに、菜食主義をすれば体臭は臭くならないと信じ、全く風呂に入らなかったものの、かなり臭かったそうです(笑)挙句のはてに道を歩く時でも何故かいつも裸足。

そしてカリスマはあるものの性格はかなりおかしくて、脅迫観念のかたまりのように些細な事にコダワり仕事が前に進みません。
例えば事務所の椅子を選ぶだけでも異常な程こだわり、なんと2週間も悩み抜き事務用のちょっといい椅子を選びますが、写真と色が僅かに違うと業者にクレームをつけ何度も取り替えさせる鬼畜ぶり。

ちなみにジョブスはそんな性格が災いして、金持ちになっても自宅に家具がなにもなかったそうです。選び始めるとコダワリすぎちゃって結局なにも買えないそうな…。
豪邸のなにもない部屋の床で暮らすジョブス。うーんシュール。

マークラはそんな変人ジョブスを自分ではコントロール出来ないので、ジョブスをどうにか出来る人間が必要だと考えました。

そして以前働いていたフェアチャイルドセミコンダクター社の元同僚、マイケル・スコットを連れて来て社長に据えます。

スコットはコンピュータ業界の人間というよりも職人や大工の親方のようなタイプの人間で腕っ節が太く、口が悪く、押しの強いタイプの人間でした。彼ならジョブスの首に縄を付けてくれるだろうという魂胆です。

ジョブスの親父?的役割を担うマイケル・スコット

スコットは期待通りの仕事をし、ヒッピー集団の自由すぎる職場に鉄の規律を持ち込み、ジョブスを少しづつではありますがビジネスマンらしく変えていきます。

ただ、ジョブスを変える事は並大抵でありません。
事あるごとに対立し、時には酷い喧嘩もしました。

一番有名なエピソードは社員番号の話しでしょう。

会社らしく給料を銀行振り込みにする事になったのですが、そうなると社員番号を決めなければなりません。
スコットはもし社員番号1番をジョブスに与えたら増長するだけだろうと考え、ジョブスには2番を与えました。1番はウォズニアックです。

ジョブスは激怒します。なんで俺様が1番じゃないんだ!と。
スコットはもちろん全く折れません。

結局、ジョブスは社員番号0番を名乗る事にして折れ、(システム的には2番)事態はなんとか収集しました。

スコットはジョブスとしょっちゅうぶつかりましたが、甘えさせる事は決してしませんでした。

しかし、ただジョブスに厳しかっただけではありません。

社内の人間関係や仕事が思い通りにいかないジョブスはいつもイライラしていて周りの同僚に八つ当たりし、その怒りを冷ますためにトイレの便器に裸足を突っ込み水を流すという奇行を繰り広げていたそうですが、
ジョブスの心情を理解したスコットはそんなジョブスの横に立ち、一緒に裸足を便器に突っ込み水を流しながらジョブスを励ましたそうです。

便器に足を突っ込みながら語り合う、後の世界一の企業を育てる初代社長とその後の世界一企業のCEO。シュールすぎる…

そんなスコットにジョブスも少しづつ素直になりとりあえず靴は履くようになったという事だそうな。

右から2番目がスコット、4番目がジョブス

急成長したアップル

スコットが親父のように事あるごとに説教し、ジョブスの調教になんとか成功したせいかはわかりませんが、何度も発売の危機に陥ったApple IIは皆の頑張りもあり1977年の春1299ドルで発売されました。
始めはマイナーな会社が作ったコンピュータという事で一般層にはあまり売れなかったものの、(なにせ家で使うコンピュータという概念が当時無かった)
ウォズニアックの常識外れのチート級基板設計から来る性能の良さと拡張性の高さ、ジョブスの偏執狂ゆえのシンプルながら機能美に優れたデザインとアピールの上手さから、徐々に人気に火が付きます。

当時AppleIIはライバルより高かったのですが、高詳細ドットモードで色鮮やかなカラーを扱えました。
これはウォズニアックの目の錯覚を利用した画面メモリ管理のスーパーチートテクニックの賜物です。他機種と同じ様なCPUとメモリ量でしたが性能は遥かによかったのです!!この記事の真ん中あたりに詳しいです。

つまり原価は他のパソコンと同じくらいだけど、ウォズの魔法のおかげで性能がよいので高く売れた。
その辺に今に通ずるアップルの強さが垣間見えます。

そして人気の決め手となったのはこれまたウォズニアックのチート級設計による安くて使いやすいフロッピーディスクドライブの登場とそれに対応した表計算アプリ、ビジカルクの出現でした。それが1979年の事です。

Apple IIはアメリカで一大ブームを巻き起こします。

アメリカでは会社員でも確定申告を自分でしなければいけなく、複雑な税金計算に手間取っていたのですが、それを簡単にやってくれるエクセルのような表計算アプリ、ビジカルクとApple IIに皆が注目しました。
しかもお父さんや子供は税金の計算に必要なんだという大義名分で、家でゲームが遊べます!!(Apple IIはゲームパッド付き)

そうウルティマやウィザードリィ、スペランカーやロードランナーなど今に語り継がれるアメリカの名作ゲームは皆Apple IIの上で生まれたのでした。

Apple IIの増産に次ぐ増産にはなんとかスコットの陣頭指揮で対応します。
スコットはアップルに来る前、ナショナルセミコンダクター社で生産本部長をしていたのです。

あっと言う間に会社の規模は拡大し、大量の人員がアップルにやって来ます。
オフィスを移転した数ヶ月後にはまた移転というような有様です。

10名ほどの規模でスタートしたアップルは、わずか3年程で社員1000名に迫る大企業となり当然会社の雰囲気も変わりました。

大企業となったアップルに巨人の足音が聞こえて来る。

パーソナルコンピュータ市場という新たな市場を開拓したアップルでしたが、そこにアメリカの誇る巨大企業、IBMが乗り込んでくるという噂が聞こえて来ました。
その名はIBM-PC。そう、今のウィンドウズパソコン規格の元祖です。

ベンチャー精神のない他社から移って来た社員ばかり増え大企業病に侵されたアップルはこの事態に上手く対応出来ませんでした。
IBM-PCに対抗できるビジネス向けのパソコンApple IIIを以前から開発していたものの、天才ウォズニアックはApple IIに惚れ込み、それの改良や周辺機器の開発にかかりきりで、Apple IIIは他社から移って来た人間達に任されますが、状況はかんばしくありませんでした。

会議はまとまりにかけ、皆の意見を実現しようと次々にアイディアを盛り込むあまり発売の目処は立たず、さらにようやく出来たプロトタイプもジョブスが気に入らずもっと小さくしろとかファンを無くせとか色々ダメ出しをするのでさらに開発は難航しました。

1980年の初夏、Apple III はようやく発売されました。
しかしIBMが新機種を発売するかもしれないと焦って開発したのが災いしたのか、発売開始早々Apple IIIは熱暴走などで不具合続出。評判はガタ落ち。
ほとんど売れませんでした。

他社から来たApple IIIの開発者達は不具合を全てジョブスのせいにし、高給をもらい、ふんぞりかえっていました。

ジョブスと運命のマシンALTOとの出会い

Apple IIIが発売される半年ほど前、ジョブスはコピー機で大儲けしたゼロックス社の研究所を訪れていました。
世界でここに一台しかない開発中のGUIコンピュータ(アイコンや文字をマウスで選択して操作する今のようなパソコン。当時は全て文字を打ち込んでコンピュータを操作していた。)アルトに触れ、
「これこそが俺の追い求めて来た理想のコンピュータだ!これで世界に革命を起こすんだ!」と開眼します。

そして、ジョブスはアップル社内でApple IIに代わるビジネスマシンとして開発されていたLISAの開発に加わります。(当時Apple IIIとLISAと2機種平行で開発されていたのです。)

もともとは従来のパソコンの発展系として開発されていたLISAでしたがジョブスが方針転換させてしまいます。
「ゼロックスで見たALTOのようなマシンを作るんだ!!」
そして開発は難航します。
唯一の収穫といえば、ALTOは高価な専用ハードを使いグラフィカルな操作を実現していましたが、あのハイパーカードの作者で知られるビル・アトキンソンというプログラマーが思い込みと情熱だけでソフトウェアのみでALTOより優れた描画ルーチンを作りあげた事くらいでした。

当時の個人向けパソコンのマシンパワーではグラフィッカルな画面と操作を実現するのは困難を極め、特注のパーツを載せる事になり、次第に個人が買える金額のコンピュータから遠ざかってしまいました。

混乱した現場ではジョブスは無理難題な要求を繰り返し、以前からのリーダー達と対立は深まり、現場は混乱を極めます。

絶頂期のアップルに忍び寄る危機

1980年の年末、アップルはIPO(株式公開)をし、22ドルという記録的な高値をつけ、当時のボーイング社の時価総額の3倍という資産価値をつけ、アメリカ有数の大企業の仲間入りを果たします。

市場はAplle IIIの失敗はあったものの、絶好調のApple IIを高評価したのでした。

株を沢山持っていた創業者メンバーと他社から移って来た社員達は巨万の富を得て我が世の春を謳歌します。移って来た社員は引き抜きの条件として株を渡されていたのです。

一見アップルは順風満帆で他社から来た社員達は特に浮かれていました。

しかしながらほとんどの人が気づいていませんでしたが、実はこの頃からアップルの危機が始まっていました。

主力のApple IIは相変わらず絶好調なものの、噂のIBM-PCが出れば力不足なのは明らかだし、期待の新機種Apple IIIはポンコツ。それに変わるLISAも到底上手くいきそうにありません……

それに気づいていたのがマイケル・スコットだったのです。

強敵 IBM-PCとコモドール64 現わる

1981年9月、遂に巨人IBMのIBM-PCが発売されました。

始めはアップルも「ようこそIBM、本当にね」なんて新聞広告を出して余裕をかましていましたが、あっと言う間にオフィスユースを席巻されます。

そして翌年’82年には超低価格マシン、コモドール社のコモドール64が発売されます。
595ドルという低価格でありながらApple II と遜色ない性能が自慢でホビーユースに大ウケし、世界的大ヒットとなります。
日本のファミコンに近い様な存在で、何と販売終了までに世界中で1700万台を叩き売りました。
Apple IIのNo.1のシェアは早々に陥落してしまいます。
ビジネスユースとホビーユースの両面から強力なマシンが現れ、アップルは窮地に立たされたのです。

社長、マイケル・スコットの歴史に残る決断

創業時はクリエイティブな雰囲気だったアップルが巨大になるにつれ会議ばかり重視しリスクを取らず互いの足をすくう事しか考えない退屈なサラリーマン集団と化していく事に、マイケル・スコットは危機感をつのらせていました。

そして強力なライバルが現れた今、アップルは危機を迎えようとしていました。

スコットはアップルとジョブスを変える為、決断します。
その方法はかなりの荒療治でした。

まず、スコットはジョブスをLISAのチームから外す事を検討します。
これはリーダーが複数いて混乱している現場の状況を見れば誰でもわかる適切な判断でした。
しかし、いかに唯我独尊であろうと創業者メンバーで仲間意識のあるジョブスが必死になって理想のコンピュータを追い求めているチームから外すのは、いくらスコットでもためらいがありました。
でもAppleの将来のため、腹を決めてスコットは強引にジョブスをチームから外しました。

そして次にスコットはブラックウェンズデーと呼ぼれる事件を起こします。

スコットが前々から大企業病の元凶と感じていた他社から引き抜いた41名を詳しい説明もなしに突如クビにしたのです。
そして中庭に大勢のアップル社員を集めてこう言いました。
「俺は、社長の仕事がつまらなくなったら、いつでもここを辞めるつもりだった。でも気が変わったよ。これからはつまらなくなったら、面白くなるまでお前らをクビにするつもりだ。」

完全に悪役レスラーのセリフですね。
もちろんクビにされた社員や家族はおろか他の社員からも大ブーイングです。今でもネット界ではバッシングされていて、精神的におかしくなってこんな事をしたとか散々な書かれようです。

ブラックウェンズデーの真相

でも実はこれには裏があって、最近来た開発者達にApple III 失敗の責任を押し付けられたジョブスが仕返しのため同じような考えを持っていたスコットに大量解雇を勧めていたという説。
そして事件が起こると一転、解雇の責任をすべてスコットになすりつけ、社員達と一緒になってスコットを糾弾したのです。何故ならスコットにはLISAから外された恨みがあったから。

そして事件を引き起こした責任を取りスコットはそのまま辞任してしまいました。株式公開が大成功していたこの時期に…

実はスコットはジョブスの黒い腹を知っていました。が、あえて悪巧みに乗り、わざと責任をすべて被ったのです。まったくジョブスの事を悪く言いませんでした。

ジョブスをLISAチームから外す決意をした時点でアップルの膿を出し切り、ジョブスの居場所を作り、辞める覚悟を決めていたのだと思われます。

ジョブスにはいつも説教ばかりしていたスコットですが実は相当ジョブスの才能と人間性に惚れ込んでいました。
世の中のルールに従わずワガママで怒りっぽく、小さな子供のように残酷な所があるジョブスですが、ある意味本当に天真爛漫で心のままに生きており、製品開発にかけては常人にはない天才的なセンスを感じていました。そして常々ジョブスが思いっきり活躍できる場をAppleに作りたいと考えていたのです。
それがアップルの為になると信じて。

そのためには敢えて自分が悪役になってアップルから消える事も厭わなかったのです。

そしてここが重要なポイントですが、スコットは辞任する直前、ジョブスにMacintoshプロジェクトを紹介します。これがスコットの本当の狙いでした。

ジョブスはスコットが自分の事を恨んでると思っていたのでびっくりした事でしょう。
そしてジョブスはスコットの意思を受け取ります。

Macintoshとジョブスの出会い

Macintoshプロジェクトは知の巨人と呼ばれる元大学教授ジェフ・ラスキンによって始められた4名ほどの小さなプロジェクトで社内でも全く知られていない存在でした。
ラスキンは一般大衆向けの誰にでもカンタンに使えるコンピュータを目標にMacintoshを開発をしていました。
正にこれはジョブスの理想と同じ。ジョブスは待ってましたと言わんばかりにMacプロジェクトに加わります。
しかし細かい点でラスキンとは目指すコンセプトが異なってました。
ラスキンは誰でも買う事が出来る値段…500ドルで販売するため、スペックを必要最低限とし、敢えて文字ベースのコンピュータにしようとしていましたが、これではジョブスの目指すグラフィカルなコンピュータにはなりません。
二人は大きく対立しますが結局創業者のジョブスには敵わず、ラスキンはAppleを去ります。

ジョブスようやく本領発揮

そしてプロジェクトを我が物にしたジョブスは次々と優秀で彼のビジョンに共鳴する人材を各方面から引き抜きます。
天才ビル・アトキントソンはもちろん、ゼロックスからALTOの開発者まで引き抜きました。
そして少数精鋭の新生Macチームは、ジョブスの無理難題をたくさん押し付けられるわけですが……
ジョブスの神がかり的な現実歪曲フィールドとカリスマ性でもって
「俺たちが世界に革命を起こすのだ!」と信じきって狂信的新興宗教のようになってしまったMacチームはジョブスの完璧なしもべと化し、不眠不休の決死の努力と作業の末、ジョブスが突きつける難題を次々とクリアし不可能を可能にしていきました。

そして当時の技術では困難だと思われていたグラフィカルなユーザーインターフェースをどうにか大衆が買える値段で実現しようとしていました。
しかも、その操作性や機能性、画面デザインなどはコピー元のALTOを遥かに凌ぐ完成度の高さでした。
これはひとえにジョブスの異常な程の完璧主義のなせる技でした。

Macの革新性とは?

例を挙げれば、まずコンピュータにフォントの概念を持ち込み、文字の種類や大きさを自由に変えられるようにしました。またフォントの美しさにもこだわりました。

さらに画面上の文字や絵などの大きさとデザインが、プリントされたものと全く一致するようにしました。しかも滑らかな曲線で文字や図形はプリントされました。
これはWYSWIGと呼ばれる画期的な技術で、これにより後年Macはデザインや出版に広く使われるようになり、今でもこの分野はMacの独壇場です。

さらにジョブスは普段目の触れないマシン内部にも美しさを求め、基盤とパーツの配置には禅のシンプルさと風水の五行を取り入れ、その息を飲むほど美しいデザインは回路効率を完全に無視しておりエンジニアを青ざめさせました。もちろん忠実なエンジニアは苦難の連続の末、美しい配置のまま性能を引き出す事に成功します。
しかしユーザーには決してマシンを開けさせまいというジョブスの信念のもと、特注のこの世に2つとない特殊なネジでマシンに封をしたため、一般人はその美しい基盤を見る事はありませんでした!
(wwwww)
当然これ程こだわったMacは完成に2年もの月日が必要でした。

でも逆にこれだけこだわったのに2年で完成させちゃったのは凄い早いと思います。それだけMacチームは不眠不休の努力で開発にあたったのです。なんでもチーム内では「週90時間、喜んで働こう! 90 Hours A Week And Loving It!」というプリントのTシャツを着るのが流行ったそうな。
超絶ブラックな職場ですが、もはやそういう次元ではないのです!

LISA失敗しアップル危機に陥る

そしてマイケル・スコットが辞任し、ジョブスがMacを開発し始めてから約1年後の1983年初頭、ようやくLISAが発売されます。
ジョブスが居なくなった後、本格的なビジネスマシンを志向して仕上げられますが、1万ドルという価格設定はあまりに高すぎ、そして動作も遅かったたため、先進的なグラフィカルユーザーインターフェースを備えていたものの全く売れませんでした。

その間いよいよIBM-PCとコモドール64は売れに売れパソコン界の覇権を握り、Apple IIは今までの資産のおかげでそれなりには売れていたものの、アップル社は完全に窮地に立たされてしまいました。

完全にマイケル・スコットが危惧していた通りの展開になってしまいます。

でもスコットが蒔いていた種から芽が出ようとしていました。

アップルはMacintoshという芽にすべての望みを託します。

遂にMacは発売され、アップルを救う?

そして1983年の年末、長い地獄の様な開発の果てに初代Macintshはとうとう完成しました。
期待を一身に背負い、大金をかけてブレードランナーで有名なリドリー・スコット監督を起用し、ディストピア小説1984を映像化した華々しいTVCMと共にMacは2400ドルでデビューしました。

そのCMの最後はこう締めくくられました。
「1984年1月24日、アップルコンピュータはマッキントッシュを発表します。そして今年1984年が、小説『1984年』に描かれているような年にならない理由がわかるでしょう…」

華々しい発売当初こそ革新性とデザインに注目が集まりインテリ層を中心にかなり売れますが、対応ソフトの少なさと搭載メモリの少なさが仇となり「1リットルしかタンクのないフェラーリ」と揶揄され、実用性に疑問符がつきあまり売れなくなってしまいます。
そして責任を追及され取締役会との確執もありジョブスはアップルを追放されてしまいます。

しかし、メモリを増やした改良型Macの登場や対応ソフトが増えるにつれ、Macの真価が理解され、その後どんどん売れ行きを伸ばしApple II に代わりアップルの屋台骨として会社を支え続けるようになりました。

その後10年に渡り…
そう1995年にWindows95が発売されるまで、グラフィカルユーザーインターフェースを備えパソコンに詳しくない人でも仕事に使える唯一のマシンとして、
Macは圧倒的な存在として君臨したのです。

その後Windowsに滅ぼされそうになるもジョブスが戻ってきて、iMac、iPod、iPhoneと立て続けにメガヒットを連発し今に繋がるアップルを築き上げます。
そして先に触れた様に今でもデザインや出版、音楽関係などクリエイティブな分野ではMacは相変わらず強いのです。

アップルはMacのおかげで第一線の企業として過去から現在に至るまで君臨し続ける事が出来たのです。

スコットの功績をまとめると

如何でしたでしょう

ヤンチャでフリーダムな若者達の会社に鉄の規律を持ち込み、会社らしくまとめ上げ、
見事Apple IIの出荷、製造と販売の急拡大に成功し、
僅か3年でアメリカ有数の大企業に育て上げ、
株式公開し成功の頂点に立った矢先、
会社を正し自ら去って行った漢。マイケル・スコット。

もし、平凡な社長だったら創業から僅か3年でアメリカ有数の企業に成長し、IPO(株式公開)を果たして億万長者になった時点で満足し、慢心するか守りに入るはずです。
経営的には問題がないのに移籍してきた社員を次々とクビにしたり、ましてや創業者のカリスマをプロジェクトから追い出したりする事は決してしないでしょうね。

かなり乱暴なやり方ではあるもののマイケル・スコットがこのタイミングで大ナタを振るったおかげで、アップルにベンチャースピリットを思い出させ、
社内で孤立していたジョブスを彼の本領がもっとも発揮出来るMacintoshという器に引き合わせ、
社員達の奮闘もあってパソコン界のエポックメイキングであるMacが生まれたと思います。

そして、自分は歴史に残る事無く消え、かわりにアップルを救う事を選ぶあたり、正に…漢。という言葉が浮かんできます。

もしスコットがいなかっら、LISAの失敗とともにアップルは徐々にフェードアウトし、「そういえばApple IIっていうコンピュータを作ってた会社があったなぁ…」とパソコンマニアの記憶の片隅に残る会社として終わっていた事でしょう。

何故スコットが評価されないのか

それにしても、何故これ程の仕事をした人物が正しく評価されないのでしょうか?

多分マイケル・スコットは職人の親方のような気質の人間で決して人前で自分の功績をペラペラ話すような人物ではなかったのでしょう。
また、多少強引な所があるので人に誤解されやすいのですが、その誤解をアピールして正す…というのも彼の性格を考えればしないのでしょう。
人からどう思われようと自分の正しいと思う信念に従って行動し、決して弁解したりしない。
コンピュータ業界では珍しいくらい非常に漢らしい。もうシビれます!
またアップルを出てから、宇宙産業の会社に関わったり色々活動をしていますが、自伝を書くような事はしていません。

あと、ジョブスにとっては唯一アタマの上がらない存在だったので、ジョブスはスコットの事を人前では良く言いませんでした。

ですので彼の功績はあまり正しく伝わっていないのでしょうね。

でも、ジョブスをLISAチームから外してMacintoshプロジェクトを紹介したあたり、実は一番ジョブスの人間性をわかっている良き理解者だったのではないかと思ってしまうんですよね。
多分ジョブスもスコットをオヤジのように反抗して悪く言う反面、内心慕っていたのではないかなぁなどと思うのです。

ちょっと長くなりましたが、アップル初代社長、マイケル・スコットの物語でした。

お読み頂きましてありがとうございます!
好きな分野なので、色々書きすぎてしまいましたがいかがでしたでしょうか?
ご意見お待ちしております!

(今まで読んできた様々な書籍、ネット記事をもとに僕の考察も交えてお届けしました。)