Q. 人はなぜ生きるのですか? どう生きれば最善ですか。哲学的問いとその答え。

Q. 人はなぜ生きるのですか? どう生きれば最善ですか。哲学的問いとその答え。

こんにちはタマオです。
実は僕、昔、少しだけ編集の仕事を志してた時期がありまして、その時通信教育というかメルマガで学んでいたのです。
そういえば、オフ会にも一度顔を出して主催されてる先生とも少しお話をさせて頂いた記憶が…
しばらくそのメルマガは来なくなっていたのですが、昨日その先生から、凄いメルマガが送られてきたので転載します。

こんなに感動する文章をまさかメルマガで読めるとは思いませんでした!!

僕の知りたかった事がすごくわかり易く書いてあります。
しかも分かり易いのにそこをさらに深く掘り下げられていて、宇宙的な壮大さと物事の真髄を感じられる文章でした。

そして僕がなんとなく感じていた心のモヤモヤというか日本の淀みを見事具体的に表現されていて、なんだか少し霧が晴れたような感じです。

—-転載開始—-

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┃文章×表現《秘伝スクール》第12号(通算287号)
http://www.hiden.jp/

┃  「コロナで騒然の世に敢然と復活す!」

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●メルマガを月刊ペースくらいで復活します。
なぜ休火山状態が続いたかというと、単純にモチベーションが上がらなかった。
送られてくる文章に関する質問が枝葉末節に思えたのです。

枝葉末節でも、そこから全体のことがわかることがあります。
植物の葉を研究しても植物のことや生物のことがわかるでしょう。
でも、枝葉末節には、すでにずいぶん答えた。
読者のみなさんには、結論より、その考え方のプロセスを学んでいただきたい。
応用問題は自分で解けるようになっていただきたい。
同じ繰り返しには飽きてしまったのです。

●というわけで、新しいメルマガは、自分が答えたくなる質問を自分自身で送ることにしました。
いわゆる自問自答です。自分で火をつけて自分で消す完全マッチポンプ式!
それがいったいどこに行くか、読者のみなさんと一緒に楽しみたいと思います。
もちろん、みなさんの質問や意見、感想なども従来通り歓迎です。
いろいろな形で反映させていきたいです。

●新型コロナの騒ぎは、かなり深刻な影響と変化を世の中にもたらしています。
しかし、調べれば調べるほど、まだ予告編に過ぎないと感じるのです(この部分、3月頃に書きました)。
一過性かどうかもわかりません。
かなりの確率で、私たちの生活、文明や経済自体が大きなシフトを迫られることになるでしょう。たいへんに厳しい時代がくることは間違いがありません。

●そのときに自分は何を書きたいんだろう?
何を書けて、何を書く必要があるんだう?
それに答える形でメルマガを出していきたいと思います。
楽しみに読んでいただければ幸いです。

 

●協力していただきたいことがあります。今大きな計画を考えています。それは、新しいニュース・メディアを作ること。
今のテレビや新聞は、マスゴミなどと悪口を言われます。単純な罵倒辞はよくない。
でも、たしかに今のマスメディアの状況はひどいものです。

それなら手作りのリポートを集めてニュースをみんなで作ろう、という企画です。

今のマスメディアはニュースソースが限られています。
テレビでは、朝から晩まで同じネタを流しています。
情報が少なくて偏っているのです。
そして、知りたい点に深く突っ込んでくれません。

何を取り上げて、何を取り上げないかに大きな不満を感じます。
この状況に対して、ネットを通じて現場にいるさまざまな人が投稿するメディアを作る。
莫大で多面的なオリジナル・ニュース・ソースを創出しようという企画です。

みなさんにご協力いただきたい、いちばんは、記事を書いてくれることです。

いちばん最初のアイデア、イメージは、多国語に通じる人で、海外の新聞・雑誌・テレビの論調をダイジェストできる人のネットワークを作ることでした。
世界の大ニュースが、日本では小さく扱われる。あるいはまったく扱われない。
ひどく歪んだ地図と狂った時計を持っているように、日本人が自己客観視をする力を持たなくなっていると思うのです。

世界の論調と比べて、いつもおかしいな、と思っている方がいるのではないかと思います。
試みに何か書いていただけたり、連絡をいただければ幸いです。

でも、話はそれに限るのはもったいない気がしてきて、「隣の猫が子どもを産んだ」的なニュースもいいのではないかと思います。
最初に書いたように枝葉末節から全体が知れるということもあるもので、今メディアが扱っているニュースの形式よりはかなり緩めにストライクゾーンを設定し試したいのです。

タイムリーにはコロナ のニュースもあるでしょう。
しかし、それは溢れかえっているので、よほど独自の情報でなければ目立たないでしょう。
最新情報でなくてもかまいません。
ハッとするような驚きがあるものがいいですけどね。

というわけで、「これは世の中の人はあまり知らないよね」という情報をお持
ちの方は、送ってください。

採用分は、このメルマガに載せるか、ブログかどこかで発表したいと思います。
それ以外のお礼は現状とくに出ません!
この企画を面白い! と思ってくださる方、なんか書いてみたいと思う方に協力いただければと思います。

■専用メールアドレス
news@hiden.jp

下記の形式に則ってください。

* メールのタイトルに【ニュースレポート】といれてください。

* 内容が一目でわかる、興味を引く見出しをつける
 例 [村松がメルマガを再開した!]

* 400字程度がよい。最長800字

* いわゆる5W1Hを明瞭に。

* 情報の出所を明確に。
 (自分の体験なのか、何かの媒体なのか。媒体名を明確に)

* いわゆるニュースの文体を意識する必要はとくにありません。

* エッセイではないので、「自分がどう思ったか」は、なるべく「行間に」書いてください。

* ハンドルネームを末尾に 〈村松〉のように

●ここで集まってくる情報の質と量によって、実現可能性が高まります。
私は、ここにはたくさんの貴重な鉱物(情報・ニュース)が埋蔵されていると考えています。
ただそれをうまく発掘し、精製できるかどうか。
手探りです。

●将来のヴィジョンは次のようなものです。
1 ツイッターのような自由な投稿サイトを作る。これは交流用ではなくて、あくまでも「ニュース」というカテゴリーの投稿コーナーとする。

2 その中で注目度の高いニュース、また編集部で注目したニュースをピックアップするフィルタリング機能をつける。

3 ファクトチェックも、読者、参加者によってオープンに行われる機能をつける。

4 関心の高いテーマは、インタビューや追跡取材で特集する。追求するべき話題を埋没させない。

5 紙媒体、放送などと連動していく

6 独自のライター、記者、リポーターを育成していく

マネタイズは、私の苦手分野ですが、将来軌道に乗ったら、優れたリポートにはギャラを出していきたいのです。

●ボランティアを募集します。
この企画が意義がある、面白いと思う方、協力したい方、何かと連動させたい方、出資したい方はご連絡ください。
ITの得意な方や、外国語に堪能な方、取材やインタビュー、編集をしてみたい方など。
つながっておきたいと思います。気軽にメールください。

■専用メールアドレス
news@hiden.jp

また成功発展させるための知恵も求めています。
よろしくお願いします。

 

●別件。村松が最近書いた原稿

「1980年月刊『宝島』編集者」

私の20代の頃。まだファックスもワープロもなかった頃の編集者生活について書き始めました。
ある種マイナーな文化史につながっていく話です。
昔話を書くのは嫌だったのですが、書き出すとそれなりに書きたいことはたくさんあるものです。
最近新型コロナ騒ぎに震撼して止まっておりますが、それなりのボリュームはあります。
興味ある方はどうぞ。

●新型コロナで精神的に参っている人。
メルマガ復活を喜んでくれる方は、今こそ[大人の成長塾]

成長力テストがあります。これで20点以下の人はぜひご参加を!
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【村松恒平から村松恒平への質問】

第1問。

 

Q.
人はなぜ生きるのですか?
どう生きれば最善ですか。

A.
枝葉末節を捨てるにしても、あまりに根幹的な質問です。
日本人は、そういうことを考えないまま「大人」になっているからです。

文章の書き方も本当はここからブレークダウンしていきたいのです。
今の世の中は断片的な理屈が多すぎる。
ツィッターなんか見ているとそう思いますね。
ある断片なら思い込みと感情の圧力でなんとでも言える。
「白は黒だ!」と怖い人が強く断言すれば、その場は通るかもしれない。
しかし、正しくはない。
他のところでは通用しません。

どんな小さい考えも、体系化したときに矛盾がない断片でなくてはいけない。
昨日はこう言っていたのに、今日はこう言っていた、では一貫性がない。
あの場所、あの人にはこう言っていたのに、ここでは違うことを言っている。
それでは信用ができないですね。

人には矛盾はたくさんあります。しかし、それを自覚していないで物をいうのはよくない。
論理的なつもりで平気で矛盾したことを言ってはいけない。
直観的な発言も、きちんとした体系に収まっていかなければいけない。

そんな当たり前のことを言わなければいけない時代のような気がしています。

さて、本題。
いろいろな角度から答を探って、最後に私自身の考えを書きましょう。

最初は「子どもように」答えてみます。子どもは大人より柔軟に言葉を使いま
す。
屁理屈のようで、それが意外に本質をついていたりする。
子どもは詩人で哲学者です。

その1
「人はなぜ生きるのか?」
「死にたくないから」

人は死にたくないのです。赤ん坊のときから死にたい人は見たことがない。
小学生くらいになれば、死にたくなる人もいる。
でも、それは「人間的」環境によるもので本来ではない。
「いや私は生まれた時から死にたかった」と主張する人もいるかもしれないが、
あまり相手にしたくない。

生きていくのに楽しいこともあれば、苦しい辛いこともある。
そのプラスマイナスの差し引きがよほどマイナスでなければ、人は自分で死の
うとは思わない。
死の苦痛や不安や恐怖は一つの壁としてあり、その壁を乗り越えるには、特別
な長く続き脱出できないと思われる苦痛や心理状態が必要でしょう。

たいていの人は、この壁の内側でなんとか、やりくりして生きています。
だから、特別な生きる理由というより、なるべくプラスを多く、マイナスを少なく処世しようとします。

そういうことが人間的な事情であって、そこに「人はなぜ生きるのか?」という問いはない。
「いかに生きるか?」は誰もが悩みます。
WHY? がなくて、HOW? だけがある、というのが一般なのです。
しかし、WHY? がないHOW? は安定が悪くて応用が利きません。

その2
「人はなぜ生きるのか?」
「生きているから人で、死んだらもう人ではない」

私たちの物質的な認識では、死んだ人が生きていたらそれは「幽霊」です。
「思い出の中に生きている」という言い方もあるが、それも「思い出」です。
つまり人は生きているのが「当たり前」と言えるのです。

今度は、もう少し大人の問答しましょう。

その3
「人はなぜ生きるのか?」
「理由は人によって違う」

ある人はお金儲けに夢中になって一生を終えます。
ある人は愛に生きて死にます。
何かの研究に夢中になる人もいます。
芸術に生きる人もいます。

たしかに違いますね。

一方、とくに目的や理由のない人もたくさんいます。
「生きる目的は?」と聞いても、言葉にできない人は多いです。
そういう人が幸せでないとは限りません。
ということは、個人が生きるのに言葉にできる明確な目的がある必要はないのかもしれません。

そもそも「人はなぜ生きるのか?」と聞かれて、「人によって違う」では答になっていません。
この哲学的問いは、そこに共通性、普遍性を求めているのですから。

では、「目的を決めて遂行するため」ではどうですか?
この答は、目的がない人を排除しています。
一つの主義、イデオロギーです。

イデロオギーとは、「何か善であるかを人為的に決めること」です。
と同時に善でないものを批判して排除することです。

「目的を決めて遂行するため」に人が生きるとしたら、目的がない人は怠け者だったり、半人前と非難されるでしょう。

しかし、イデオロギーは一つの分裂、狭い限定ですから、それに対立するイデオロギー、矛盾するイデオロギーが無数にあるのです。
全体の中から一部を限定し、切り取る発想はいくらでもあるのです。
大根の切り方だってたくさんあるでしょう。
その中でこの切り方が正しいと主張することは意味がありません。
「この料理ならこれがいい」とは言えるのですが、すべての料理が同じではない。

というわけで、「人によって違う」と「目的を決めて遂行するため」は、事実そのままですが、普遍性がないので却下。

ここで一歩引いて、客観的に眺めましょう。
個人の個別な思いではなく、生物としての人類の生きる理由を探します。

有名な「利己的遺伝子」説を検討します。
これは極端にいうと、生物は、遺伝子の乗り物であって、遺伝子は乗り物である個人に、自らの生存と繁殖に有利な選択をする、させるというものです。

その4
「人はなぜ生きるのか?」
「遺伝子にそのように書かれているから」

つまり、人は死にたくない。食べたい。セックス(生殖)がしたい。子孫を繁栄させたい。
その要素を遺伝子が持っているということです。
というより、そういう遺伝子が強い遺伝子として生き残ります。

一個一個の個体が現実にそういう指向性を持っているとは限らない。
結婚しない人、子どもがほしくない人はたくさんいます。
遺伝子としては不本意かもしれないが、人はそういう選択をします。

では、このように逸脱せず、遺伝子の性向に沿った生き方をすれば善なのか?

遺伝子的に正しく生きている人の代表は、強欲な政治家のような人ではなかろうか。
つまり、生存欲、食欲、性欲を剥き出しにしたような人。
そして、十分に食欲、性欲を満たすためには、金銭が必要です。
金銭欲というメタな欲望が出てきます。
地位欲、名誉欲も加わります。
食欲は腹が満たされれば終わるが、これらの欲望は果てしがありません。

権力を持つもの同士が結婚して、より遺伝子を強化します。
家を強化します。
そして、子どもに財産や権力を譲るから世襲議員が多くなります。
世襲議員の大部分は、世間知らずでバカだが、生存するパワーだけは強いのです。

自己保存欲、食欲、性欲の延長線上に金銭欲、権力欲をおけば、これらは動物的な欲望といえます。
これらは立派に一つの価値観であるが、同調できない人も多いでしょう。
私は全く同調できません。
金や権力を無条件にくれると言われれば、正直なところ喜ぶでしょう。
同じ要素が自分の中にないとは言いません。

だが、タダではすまないでしょう。激しい競争、闘争の世界です。
人を蹴落として、争ってまで手に入れたいとは思いません。
そういう争いは醜く見えます。
そういう人は多いでしょう。

そう考えると利己的遺伝子説も全員に単純に適用できるものではないとわかります。

では、どう考えるか。ここから私の考えになります。

人の動物的ではない部分に注目します。
精神性、美意識、言語能力などは、動物はほとんど持たないものです。
人間は万物の霊長と言われます。
最も優れたリーダーということです。

この精神性の進化こそが目的であろうと考えます。

この場合の目的とは、「神様が人間を作った意図」のことです。
神様という言葉には抵抗がある人もいるでしょう。
自然と言い換えてもいい。
自然の中には秩序とプログラムがあります。
人の身体の中の働きを観察すれば、それがいかに精緻なものであるかわかります。

たとえば体温の恒常性を保つ働きを調べてみれば、それが体内のあらゆる部分、あらゆるレイヤーと関わっていることがわかるでしょう。
これは一つの隠れた意図、隠れた方向性がなければ形成されないものです。

小説を書く人なら、伏線を張りめぐらせて緻密で有機的な小説を書くことがいかに難しいか知っているはずです。
しかし、生命、とりわけ人体は小説の何億倍も複雑な構造物です。
これを偶然できたと信じる人の頭がわかりません。

20世紀末に『神様学入門』という著書で、私は「偶然で目玉焼き一つできたことがあるか? 目玉焼きもできないのに生命ができるか?」と問いかけました。
偶然では、野菜炒めも八宝菜もできません。
どんな料理も作ろうという意志があるからできるのです。

この本を書いた頃、量子力学は今日のような発展を見せていませんでした。
量子力学の数式はわからないが、その発想から類推できることは、たいへん刺激的です。

この世の物質はすべて極小の粒子からできている。
そして、粒子とはつまるところエネルギーなのです。
物質のすべての根源はエネルギーです。

エネルギーは流動的です。
流動的でありながら、私たちの目は物質を固定したもの、確定したものとして見ています。
そのように見えるのは、エネルギーの世界はきわめて精密に秩序だっているからです。

無秩序なエネルギーで世界ができていたら、生命もまして人間も生まれることがない。
誰も観察することのない純粋な「無」の世界になる。
無秩序なエネルギーの世界では、何も見えない。聞こえない。あらゆる知覚が無効でしょう。
無とは、エネルギーや物質の完全な不在ではなく、このような混沌のことをいいます。

混沌から世界が生まれるのは、多くの神話に書かれている通りです。
混沌の中に一つの中心が生まれ、混沌の一滴が分かれてこぼれ落ちます。
この中心から秩序が生まれていきます。
雪の結晶にはほこりの粒子があるといいます。
中心は、それと同様のものです。

この中心がどこから来るか、どうして生まれるのかは、わかりません。
神秘の中の神秘だというしかないのです。

混沌から秩序だって形成されていく世界の内側に、生物の進化、人類の進化を置くときに、偶然という言葉は意味をなしません。
そこには固有の意志があるからです。
人のDNAが身体を形成するように、宇宙の秩序も秩序たる以上、原理、方向性、ロジック、設計図、意志(理解できるなら、なんと呼んでもいい)を持っているからです。

人類が霊長として「精神」を与えられたのも進化の意志の内側にあります。
精神がある分、ヒトは他より高度な動物です。

……というような前提すらも、近頃は反対意見があります。

動物愛護が行きすぎて、「動物は純粋な分、人よりすぐれている」というような思想も見かけます。それは人類のリーダーとしての責任放棄と言えます。というか、個人で言ったら自己嫌悪でしょう。
たしかに人の愚かな行いは絶望的、絶滅的なレベルだが、動物のほうが偉いといってそれが解決するわけもないのです。

人は言語を使って考えます。
これは、バベルの塔の比喩にもあるように、あらゆる間違いのもとです。
だからといって、言葉を持たない動物のほうが賢いというのは、退廃的な考え方です。

人の精神をなんとかよいほうに高めて行く努力をしなければなりません。

以上の比喩ではわからない人のために、もう一つの比喩をプレゼントしよう。

私たちがパソコンで動画を見るときに必要なものは何か?
まずパソコンのハード自体がいります。
次にOSが入っていなければなりません。
次にアプリ、あるいはブラウザが必要でしょう。
そして、動画そのもののコンテンツが必要です。

私たちが見ている生きている次元は、この動画のドラマの中だけなのです。
それ以上の構造は、動画の内側にいる私たちは知ることができないとしたらどうでしょう?

動画の中の人物に感情移入しているだけでは、世界全体を知ることができません。
しかし、過剰な感情移入をやめれば、かろうじて想像力が、あるいは神秘主義や理論物理学のようなアプローチが、私たちの世界を支えている見えない構造についての輪郭を垣間見せてくれます。

このような動画の2次元性を生きながら、3次元的な構造に思いを至すことが、人の形而上学、信仰、芸術、科学、数学などの創造力・想像力の根源にあります。
それが人の精神の力であり、可能性です。

いったいなぜ神様=自然は、人類に精神を与えたのか。
よい音楽を聴いたり、よい絵を見たり、あるいは読書をしたり、アニメや映画を見たりして、私たちはその感覚を楽しみ、文化として蓄積し、また創造力・想像力を高めてきました。

それは自然、神、宇宙の秩序に対して素直なことでありましょう。

流れるプールでも、川の流れでもいいが、その流れの力の方向に素直であれば、私たちは推進力を得ます。
逆らえば進むことはできず、疲弊します。

宇宙の秩序に逆らわないことで私たちは目的地に近づくでしょう。

もちろんこの比喩は反論可能性を含みます。
流された先が滝壺だったらどうするのか?
神だと思っているものの意図が罠であって、本当の道を知る選ばれた少数者以外は淘汰されるのかもしれません。

あるいは流れに逆らうことで、前には進まないが筋肉は鍛えられるという考えもあるでしょう。

神秘主義の中には、あらゆるバリエーションがある。
神=自然の秩序に対して、人がどうあるのが最も有利(善)なのかを想像し、工夫してきた歴史が神秘主義と言っていい。

なにしろ抽象的な見えない世界であるから、どうとでもとらえようがあります。
行き止まりや勘違い、傍流や騙しなど数々あって何が本質かは見えにくいです。

私はあまり屈折しすぎた説は、採用しません。
今は「神=自然の秩序に対して素直に生きる」を最善の生き方にして実践しているし、みなさんにも勧めます。
そこから考え始めるのが、もっとも認識が自然に広がります。

「神=自然の秩序に対して素直に生きる」というと、スピリチュアルだとレッテルを貼るむきもあるでしょう。
しかし、いわゆる「スピリチュアル」はアメリカ発のマーケティングである。
ヨーロッパのオカルティックな領域と俗流心理学をかきまぜて生み出した商売であって、それを日本人が何百万も払って習得してきて日本で何万か何十万かで卸売りする。
これがスピリチュアルの今日的な意味である。

いわばヤマハがエレクトーン教室をやって音楽教室をやっているのと同じである。
家元制度と同じで中央に金が集まるようになっている。

そのようなスピリチュアルと、この話に同じレッテルを貼る奴は思考停止したバカである。
と先にレッテルを貼っておく。

西洋の哲学、形而上学も神学や神秘主義から分かれたものだし、直接の系譜がなくても、背後に脈々とある。そのようなことを理解していれば、レッテル貼りではなく具体的な内容についての批判になるだろう。

「『神=自然の秩序に対して素直に生きる』とは、どうするの?!」

という疑問を持つ人は、正しい。
これからそのことを書くからだ。

第一部完。

 

 

 

第二部。

「『神=自然の秩序に対して素直に生きる』とは、どうするのか?!」

単純な答がある。
自由に生きることだ。

「なーんだ」というなかれ。

私のいう自由の概念の中には、多くのものが含まれている。

かつて私は「自由とは『自分の理由』で生きること」と書いた。
他人の理由で生きている人がたくさんいるからだ。
そもそも自分の中に他人との関係が深く入り込んでしまっていることがある。
たとえば、何かするときに母親に叱られないか、機嫌を損ねないか、いつもビクビクしている人は、その人の中に「自分の理由」ではなく、「母の理由」を抱え込んでいることになる。

自由とは、そういう自分の中の自分でないものを手放していくプロセスです。

手放した結果、行き着くところは、自然です。

自分→自由→自然

このように一列に並べるとわかりやすい。

神=自然であると定義してあります。
自然に生きることと自然の秩序に従っているのは同義です。
では、自由に生きることが自然のプロセスであることを見ていきましょう。

私たちは牢獄に閉じ込められているよりも、閉じ込められていないほうがよい。
これは一目瞭然、自明のことです。
閉じ込められれば、生きる可能性が限られるからです。

牢獄にいても、読書はできるかもしれないし、体操もできるかもしれない。
しかし、好きなところに散歩することはできないし、会いたい人にも会えない。
たいへんに行動が限られます。

可能性を限定されることを私たちは好みません。

では、牢獄に入っていなければ私たちは自由かといえば、そんなことはありません。
心の中にこそ、さまざまな不自由があるからです。
虐待やいじめにあった人は、心の中にいつも自分を責める他人の声を聞いています。
人に会うのが怖くて引きこもってしまう人もいます。

それは極端でわかりやすいケースだが、たいていの人がそれぞれの苦手意識や恨み、こだわりなどを抱いています。
それによって、行動、言動は限界づけられています。

私たちの中の自然とは、つまり生命のことです。
生命の可能性の十全なる発露、展開を考えるときに、このような限界はないほうがよいのです。

ガーデニングをするときに、私たちは植物のよい状態を知っています。
芽が出て、茎が伸び、葉をつけて、花が咲き、やがて結実します。
陽当たりや水、十分な土壌や養分、これらの必要な要素が欠けていれば、満足のいく生育は得られないでしょう。

大きな花をつけて、立派な実や種を残します。
植物の十全な姿を私たちはイメージできます。

人についても十全な姿を思い浮かべることができます。
その大きな前提が自由です。

発展の可能性を閉じないことで、その人の自然な姿が現れでます。
天真爛漫という言葉があります。
生まれたままの無垢、天が与えた真の姿が咲き乱れるように光り輝くこと。
これは一つの理想です。

これはたいてい無邪気な子どものありさまをいいますが、大人だって天真爛漫でいいのです。
私たちが生まれ持ってきた魂。これが植物の種です。
その可能性を思い切り開いていく。

そういうことが個人の理想です。
そして個人の理想を実現しやすい環境が社会の理想なのです。
単純でわかりやすい。

そして、これは人を快適にするのです。

たとえば、会社員が有給休暇を取って旅行に行くとすると、一言上司に言う、あるいは書類かメールを出すだけで、休みがとれる。これはよいでしょう。

しかし、上司にぐちぐちと嫌味を言われたり、しつこく理由を尋ねられたり、職場内の調整や仕事を停滞させないために残業をしなくてはならない。
日本社会では、こういうことがよくあるようです。

これはとても不自由です。

その結果、上司の機嫌や、仕事のことが気になって、旅行が心から楽しめず、
いっしょにいったパートナーと喧嘩をしてしまうかもしれません。
不自由が不自由を呼ぶわけです。
そして、それを「当たり前の現実」として受け入れてしまえば、自分が上司になったときも同じことを部下に要求するようになります。
そのように不自由は連鎖します。

一方で自由も連鎖します。
そういう会社の不文律に反発すれば、会社を辞めて独立するような流れになるかもしれません。
会社を辞めると、新しい人間関係、新しい仲間と交わるようになります。
新しい環境、新しい刺激に触発されて、さらに心は自由になって行きます。

もちろん失敗するかもしれません。
「そんなに簡単ではないぞ」という声が聞こえてきそうです。
簡単だと言う気はないのです。
まして脱サラの成功を私が保証することなどできません。
ただ自由であろうとすると、そのように自分が整っていくということです。
自由であることによって、少しずつ自然に近づくのが理想です。
自由を求めるのは一生のプロセスです。
自然とは、人にとって一つのイデアであって、ついにそのものには到達しない
のです。

「そんなに簡単ではないぞ」「現実は甘くないぞ」という内面の声は、自分の声ではありません。
他人の声です。
息子が芸術家になろう、小説家になろう、などと言い出したときに親の言うことでしょう。
あるいは会社なら、上司や先輩が言うことです。

社会はこういう自由を阻む言葉で溢れています。
じつは私たちの内面にも、この社会の言葉の相似形があるのです。
私の言葉ではなく、社会の言葉、他人の言葉が私たちを操縦するのです。

自由を求める言葉と、人を不自由にする言葉。
どちらの言葉を選び、どちらの声に従うかで、人生は大きく舵の向きを変える
のです。

自由を求める言葉を選べば、今日から、明日から自由になるというものではありません。

たとえば、武道を習うのと同じことです。
最初は型を習う。
それは全然、様になりません。
しかし、何千回も繰り返すうちに、だんだんきれいな形になります。

それは身体が鍛えられると同時に、余計な力み、無駄な力や動きがなくなるプロセスです。
よい師に従えば、何年、何十年のうちに達人と呼ばれる境地に至るかもしれません。

そのときの構えは、「自然体」であると呼ばれるのです。
そして師とは違う一流を開くかもしれません。

そして、自由自在の境地を獲得すると、「型など必要ない」と言いだすかもしれません。
型を通じて稽古したのに、型すら超越して、必要な動きが自然に出てくるのです。

こういうプロセスが精神の自由にもあると思ってください。
心には「他人の言葉」という変なクセがついています。
このクセを一つ一つ外して、自分の言葉、自分の理由を取り戻していく。
それが自由のプロセスです。

手塚治虫に『どろろ』というマンガがありますが、百鬼丸という主人公は全身の生身を無数の妖怪に奪われて、代わりに自分のものではない武器、部分をつ
けられて育っているのです。
彼は恐ろしい妖怪を倒して、一つ一つ身体の部分を取り戻して行きます。

これは、自由を、本来の自分を取り戻していく寓話なのです。

ここで話を一度整理します。

自然=神の摂理に沿って生きるのがよいこと。
人の中にある自然は生命であること。
生命の十全に開花がする姿が「自分→自由→自然」であること。
不自由は「他人の言葉」であること。
自由はプロセスであって、1日にして得られるものではないこと。

これらを前提にさらに話を続けます。

ここまで読んでなんか一律に型にはめられるようで嫌だと思った方いるでしょうか。
当然のことですが、自由は型ではありません。

自由人の最たるものは、芸術家です。
画家は他人と同じ絵を描きません。
音楽家は人と同じ音楽を奏でません。
もしも類型を抜け出ていないとすれば、まだ芸術家ではないのです。

そして、個性的な人が多いですね。
個性的どころか、奇人変人の天才はたくさんいます。
「自由になる」というプロセスは同じですが、行き先は一人一人違うのです。

植物でいうと、みんな違う花が咲くのです。

植物ならチューリップならチューリップで、またその中の品種で、どんな花が咲くか決まっているでしょう。
しかし、人は一人一人が一品種なのです。

種(生まれつきの魂)のときから、どんな花が咲くかは決まっています。
ただその花が咲くには、環境が必要です。
自由という環境です。

反対の不自由を考えてみましょう。
他人の声、他人の理由に支配されてしまうとどうなるのか。
他人の声に同化し続けるうちに、だんだん本来の自分の声がわからなくなってしまうのです。
たとえば、兵士がそうですね。
上の命令によって命も捨てます。
「死ぬのがこわい」とか「人を殺したくない」という自分の声は、厳しい訓練をしているうちに消されてしまうのです。
人を殺す技術が自動的に発現するようになるまで、刷り込まれるのです。
軍を離れれば、1人の人としての個性が現れるかもしれませんが、軍隊にいる間、作戦遂行中は、それを押し殺しています。
押し殺しているうちにそれが本性になってしまうのです。

社畜と言われる人々もそうです。
組織の原理を優先しているうちに、それが内面化されてしまいます。
会社員が定年退職すると抜け殻のようになって何をしていいのかわからなくなるのは、個人性が死んでしまったからです。

いちばん極端なケースの1つがネトウヨです。
権力の声が自分の声になってしまう。
本来の自分の声がないから体制側の声に同化するのが楽なのです。

戦争中、戦争に反対の者、非協力的な者は、非国民と呼ばれました。
多くの「愛国者」たちが、国家をかさにきて、こういう人々を狩りたてました。
国家に同化して少数派を弾圧しました。

今のネトウヨは、こういう人々の心性の先駆です。
たぶん本当の戦争になったら、いちはやく自警団のようなものを作って国家に協力するでしょう。

敗戦とともに、「愛国者」たちは姿を消しました。
国家と同化して声を上げていただけで、信念があったわけではありません。
その後、日本はアメリカに支配されたわけですが、元愛国者たちは東京を大空を飛ぶ襲し、日本に原爆を落としたアメリカを歓迎しました。

いまだにネトウヨは、決して反米発言をしません。
強いもの、多数派に同化したいだけなのです。
反米の精神がない者、原発事故に怒らない者を私は右翼と認めません。
たんなるウヨです。

ネトウヨの主張、書いたものには、「その人らしさ」というものがありません。
彼らが自分の声と勘違いしているものは、他人の声です。
だから限りなく類型的なのです。
何千人いても同じことを口々に言っているだけです。

1人の人の中には、自分の声と他人の声が同居しています。
どちらの声に耳を傾け、大切にしていくかで道がはっきり分かれるのです。
たいていの人は両方が入り混じった状態で、最後まで生きるでしょう。

しかし、時代的には、自由の声、自分自身の声がとても不利な時代だと感じて
います。
とくに日本では、破壊的です。
新型コロナ の騒ぎで露呈しましたが、諸外国が柔軟かつ機動的に対策を打ち出しているのに、日本は全く理にかなった対策を打ち出せません。
日本の組織は、どれだけ硬直的なのでしょう。
数々の公文書の改ざんでもわかるように、組織の力が個人性を塗りつぶしてしまっているのです。
先日は文春砲が政権のために公文書改ざんを実行して自殺した方の遺書を公開しました。
周囲の圧力で、改ざんに加担しないという選択肢がなかったのです。
1人の良心、1人の目覚めだけでは、何も動かないのです。
巨大な壁に囲まれて押し潰されてしまう。
その結果、彼は追い詰められて自殺しました。

それに怒りを新たにする人もいますが、本音では「仕方がないこと」と諦めて
いる人が大部分なのが日本です。

そういう現象が日本中のあらゆる場面で見られます。
個の自由性を伸ばさないと、組織は硬直して創造性を失うのです。
そしてトップダウンだけになり、現場の声は反映されなくなります。
権力は強圧的に、そして無責任になります。

そういうことを私は全世界の時代的な現象だと思っていましたが、日本だけが特異に病的に症状が現れています。

組織か個人かの二分法、二項対立ではなく、共生させるべきなのです。

もう組織の中に個人が埋没してしまうことは止めなければいけません。
一人一人が自由になる必要があるのです。
そういう環境を作り出すために一人一人が自由に向けて動き出すのです。

社会の病理は、個人の病理として相似形であります。
ならば同時に治していかないといけない。

それで私はいま
Q.
人はなぜ生きるのですか?
どう生きれば最善ですか。

という問いに答えているのです。
個々の事象を批判したり、嘆いても仕方ないのです。
根本から変えなければいけません。

もう十分に長く書きましたが、もう一つ書かなければなりません。

それは「『自然』の反対語は何でしょう?」ということです。
自然の反対語は「人工」です。
人が作ったもの。

私たちの活動は、日々「反自然」な物質、システム、思想を生み出しているのです。
では、私たちの存在は悪でしょうか。
これは捉え方によって違います。

キリスト教は原罪というものを発明しました。
キリスト教がどれだけ巨大な教理を持っても、礎石の部分に原罪があります。

私はそれがないほうが好きです。

「人類は本質的に悪だ」というところから出発しても、巨大な思想体系を作る
ことはできます。
それなりに人を納得させることもできるでしょう。

でも、私は自然=神、そして人の中に宿る自然は生命だと考えるので、生命そのものに善悪はありません。強いて言えば、生命を育むものは善、その可能性を阻害するものは悪、と単純化できるのです。

そもそも宇宙の創生を考えたときに、そこに善悪はありません。
素粒子にも善悪はありません。
善悪はどこで生まれるかといったら全く人間的事情でしかない。

人間にとって有利か不利かで善悪は決まる。
であれば、人間の経済や損得ではなく、また宗教的な思い込みでもなく、生命
にとって有利かどうかで考えることがいちばんシンプルで健康なのです。

人工物の最大のものはなんだと思いますか。
私は言語だと思います。
人の文明は、ビルディングも橋もテレビも携帯もコンピュータも、あらゆるものが言語を基盤にして発達しています。

言語は人工である限り、自然と対立しているのです。

私たちの子どもの頃は、ガラス瓶に土を詰めて、中に蟻を閉じ込めました。
すると中で蟻が巣を作ります。
ガラスが接している面の巣穴の様子が観察できるのです。

私たちの地球がそのようなガラス瓶だとしますと、覗き込んだら、さぞ面白いことでしょう。
シムシティのように道路をひき、鉄道をひき、空路を作り、通信網を作りビルを建て……。
私が宇宙人になって見たら、それを蟻の巣と同様に「人が本能的に作り出すもの」として楽しむでしょう。

しかし、ある日、覗き込んだらすべては廃墟と化し、人類は全滅していた……。
ということになったら、人の反自然的な要素が肥大して、自然な部分とのバランスを失ってしまったことが原因でしょう。
そういうシナリオは、今や幾通りも考えられるのです。

それの一つ一つに警鐘を鳴らすより、私は一人一人が自由に生きることのほうが、持続可能な人類文明を作るのに有益だと感じるのです。

こうして自然について長く書いて来ましたが、それは言葉によっています。
人工物である言葉によって、自然に生きようということができる。
それが人の精神なのです。

かつて私は建築家黒川紀章氏の『共生の思想』という本のリライトをしたことがあります。
共生とは、組織か個人か、自然か人工か、秩序か自由か、のような二項対立ではなく、同時に実現することです。
そこに人の高度な精神があり、創造があります。
どちらかを取って、どちらかを切り捨てるのは、安易であり、間違った道です。

Q.
人はなぜ生きるのですか?
どう生きれば最善ですか。

について。
人類と今日の社会と個人。
これらを通貫して語れることは何か。

それをお答えしました。

読者のみなさんの腑にストンと落ちたかどうか。
気になるところです。

よかったら感想をお聞かせください。

●おまけ

これは[大人の成長塾]の根幹にある考えです。
「自由になるって、具体的にはどうすればいいんだ?」と思った方がいると思
います。
ここに最善のレクチャーがあります。
また専用の掲示板で質問、対話することもできます。

コロナ の自粛はいわば「さなぎ」の時間。
騒ぎがおさまっても同じ場所には帰らないのです。
有益に過ごしましょう。

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 文章×表現《秘伝スクール》 第12号(通算287号) 2020/04/13 発行
 編集責任者:村松恒平
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