どこでもドアの哲学問題とトムは真夜中の庭で

どこでもドアの哲学問題とトムは真夜中の庭で

面白いサイトを教えて貰いました。
これ、哲学のサイトなんですけど、ドラえもんのどこでもドアから考えるから、すごいわかりやすい。

まぁどこでもドアと言っても、一種の転送装置なんだけど、

ドアに入った人間は、その体を分子レベルでスキャンされて、分子構造の情報が移動先のどこでもドアに転送される、その情報をもとに移動先のドアで分子構造を完全に再現。元のドアに入った人は、同じ人間がコピーされ2人になってはマズイから、そのドアのなかで瞬時に消去される(殺される)

という設定なんだけど、なかなか考えさせられます。
その人以外から見れば、その人は変わらず生き続けてるわけだけど、ドアに入った人自身はそこで死ぬわけで、でもコピーされた人間はドアに入ってスキャンされるまでの記憶までは残っていて、実際移動した感覚を持って普通に生活していく。

死とは何だろうかと考えさせられました。
このどこでもドアがもしあったら、社会システム的には何の不都合もおきないけど、入る度に人は死を経験するわけで、でも再生された人間は死を感じない。

結構恐ろしい感じがするけど、でもこれって人間の細胞や脳細胞なんかも7年で全部入れ替わってるって言うし、無自覚なだけで毎日寝る度に生き物は少しづつ死に続けてるのかもしれない。
例えば1分間前の自分にはもうどうやっても戻れない。
1分前の思考、周りの環境、体の中の状態。
突き詰めれば細胞の配列はもうどうやっても再現できないわけで、「1分前の僕」はもう死んだといっても間違いない。
今いるのは1分前から変化した自分だ。

昨日祖母に久しぶりにあった。もう93歳で寄る年波には勝てず、少しボケてるし腰も曲がってるし、顔もしわくちゃで、動きも遅く、まあいわいる93歳のおばあさんだった。
70歳頃の祖母と一緒に暮らしてた僕は、その変化に何故か心が戸惑い、軽く引いてしまった。
まあ、表情や会話には表さず「おばあちゃんまだまだ元気だね〜」と呑気に喋ってる風を装っていたものの、心は完全に戸惑っていた。
(なんでこんなに変わり果てちゃったんだろう?)
あたまでは93歳だから当たり前なのはわかっているのだが、僕の中のイメージとどうにも目の前にいるおばあちゃんが一致しなくて、ひどく戸惑ってしまうのだ。

「この世で唯一の魔法があるとすればそれは時間。」
これは僕の大好きなイギリスの児童文学「トムは真夜中の庭で」(フィリッパ・ピアス作)に出てきた印象的なフレーズだ。(たしかこんなだった)
この本は昔からのお気に入りで時間をテーマにした幻想的な話し。大人が読んでも面白い。

そして最近は時間の流れが自分の中では遅くなり、外側では早くなり、
簡単に言えば10年があっという間に経ってしまう。

人は歳を取ると思い出の中で生きるようになるというけれど、この歳になりなんとなくわかってきた様な気がする。

時間は不思議だ。
考えれば考えるほど。