アルカメドゥ ー 遥かな時代のインドとローマをつないだ場所
- 2021.01.08
- 社会・政治
先日、以前から行きたかったアルカメドゥという場所を訪れることができました。
この遺跡はインド東海岸に位置するポンディシェリーの街の南を流れる川の河口近くにある遺跡です。
多分あまり有名ではないのですが、なかなか興味を唆られる遺跡なのでご説明したいと思います。
この遺跡はローマ帝国とインドのこの地域の貿易を示す遺跡なのです。ローマ帝国と行っても長いわけで東ローマ、西ローマは中世まであったわけですが、そのローマではなく。ローマ帝国建国当時の紀元0年前後あたりに交易がされていたという遺跡です。正確には紀元0年頃から紀元200年頃までの間のようで、ローマ皇帝アウグストゥスが交易を始めたとあります。(Wikipedia参照)。
このローマの貿易はヒッパロスの風(なんかカッコいい!)とも呼ばれる季節風貿易といわれるものの様で、まじめに10代の頃世界史を勉強してれば、覚えてたのかな?(笑)インド洋交易圏という概念もあるようで、中国とも交易をしていたらしい(漢の時代)。
この頃はアルカメドゥのある南インド東海岸地域はパッラヴァ朝(首都カーンチプラム)、チョーラ朝(首都ウライユール)、パンディーヤ朝(首都マドゥライ)などがあり、このうちのいずれかの王朝がアルカメドゥの交易所を支配していた可能性がある。
“一方、ヨーロッパ側にもメガステネスによるパンダイヤ伝承(ヘラクレスが娘のパンダイヤにインド南部を支配させ彼女の支配した地域もパンダイヤと呼ばれた。)やプリニウスによる女王国伝承(インドのパンダエ王国は女王のおさめる国であるというもの)が残されている。これは、南インドに現在でも女性を族長とする部族がいるが、そういった情報が歪んだ形でヨーロッパに伝わったためと考えられている。ストラボンは、紀元前22年にローマ帝国にパーンディヤ朝からの使者が来訪したという記録を残している。 パーンディヤ朝は、最初コルカイというインド亜大陸南端部にあった港の支配者であったが、やがてマドゥライに遷都した。”(wikipediaより)
このパンディーヤ朝のkolkaiという街は現在のtuticorin, Tirunelveli の近くでマドゥライに近く、アルカメドゥからは330kmと大分遠い。またチョーラ朝の首都ウライユールも(現在のtrichyの隣)からでアルカメドゥまでは200kmちょい。対してパッラヴァ朝のカーンチプラムは100kmちょっとの距離にある。
よく聞くのは昔の王朝は決まった国境が定まっていた訳ではなく、だいたいこの辺りまでが領土、また飛び地があったり、港からこの街道を通っていくルートはこの王朝の支配下など。現在の国境とは違う境界線があったと聞く。また各王朝が港や交易所を各自に持って、そこでローマ帝国と交易をしていた可能性もある。多分そうなんだろう。そうするとアルカメドゥはどの王朝の配下にあった交易所なのか? wikiにもある通りローマと一番交易していたのはパンディーヤ朝なのか?しかしマドゥライからアルカメドゥは大分距離がある。。。
この時代のインド全域を考えてみると、北部のほとんどはマウリヤ朝、そしてクシャーナ朝が支配していて、南部とスリランカがわずかに違う王朝に支配されているだけ。しかし南部の方がマウリヤ朝やクシャーナ朝よりも交易を多くしていた感じがします。「エリュトゥラー海案内記」の地図(下記)や、インドの南部で多くのローマ金貨が出土している事実などは、インド南部は昔から航海のルートであり北インドより開けた海洋王国が多かったという証左だと思います。
紀元前40−70年にギリシャ語で記された「エリュトゥラー海案内記」によれば、南インド西海岸(マラバール海岸)に多くの交易拠点があり、南インド東海岸(コロマンデール海岸)にもいくつかの拠点がある。
この地図を、今流行りの地政学ってやつで考えると、北インドは内陸国的であり、南インドは海洋国家ということになるのかな。マウリヤ朝は遥か北の現在の西ベンガル州、ビハール州近辺のマガダ国で興った王朝であり完全に内陸国っぽい。続くクシャーナ朝は今度はペルシャ系の王朝でサマルカンドで興り、南に移動してバーミヤン、カイバル峠を超えインド亜大陸に侵入し、現在のパキスタン東部からパンジャブ・デリー辺りまで南下してきた王朝だ。北インドは大陸からの影響を受ける内陸国であり、対して南インドは中世のチョーラ朝、10−11世紀在位のラージャラージャ王はマレー半島やスマトラにまで兵を送っている。もちろん北にも兵を送ってチャールキヤ朝の都カリヤーニ(現在のハイデラバードとプネーのちょうど中間らへんにあった都市)まで行ってるが、緯度でいうとムンバイ以南であって、北インドの深い懐まで飛び込んではいない。この王が行ったケララ征服も西ガーツ山脈の険しさを考えると、海岸沿いに船で攻め込んだような気もするし、やはり南インドの王朝は海洋王国としての視点を持っていた気がする。
交易品に関しては以下の通り、
”ローマ帝国領からはぶどう酒やオリーブ油、珊瑚、ガラス器などが運ばれ、インドからは胡椒などの香辛料、真珠、象牙、綿布、中国産の絹、アフガニスタンのトルコ石やラピスラズリなどが輸入された。そのほとんどはローマ側の輸入超過で、金貨や銀貨がインドに流出していた。”(世界史の窓より)
こう見ると紀元前から、インド人はワイン飲んでたってことになりますね(笑)、そしてオリーブオイルも使っていた。現代のインドでイタリア料理が人気なのも、こういった歴史があるからなのか!?
そして輸出側は例にもれず胡椒、象牙、そして貿易中継地点として、中国の絹(中国の商人がここまで来ていたか、インド側から行ってったか)、大陸側からはアフガニスタンの貴石類が南インドに集まっていた。まさにシルクロードの一部ではないですか!海のシルクロード!ロマンあるなーー。
そしてここでもご多分に漏れず、ローマ側の輸入超過。胡椒と紅茶、絹、綿花、陶磁器欲しさに進出してきた17世紀のイギリスとおんなじですね。やはりアジアの植民地化が進むまでは、世界のGDPの半分はインドと中国が握っていたというのは本当なんでしょう。アジアの方が特産品(あー大航海時代思い出すな)圧倒的に多いし、価値があるものが多いですね、そしてほっといても育って手間いらずな感じ。
ということで、いろいろ調べていたら南インド東海岸にあるアルカメドゥはシルクロードの一部だったという結論に落ち着きました。インド現地の説明はヨーロッパ志向なのかローマ云々とかの記述は多いんですが、日本人的に見たらシルクロードの一部(海のルート)です、と言ったほうが腹落ちします。
2世紀の日本はいまだ弥生後期でやっと石器から鉄器に変わりつつあったり、稲作が普及したり(最近はもっと古いとも言われてますが)、ヤマト王権もいまだ確立されない時代です。その頃にローマからインドを介して中国まで貿易をしていたとは、なんともグローバルな話です。スエズを通る陸路や、現代でもシーレーンとして重要視されるインド洋はこの頃から世界の重要な海域、通路だったんですね。
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