『死』とはなんなのか?

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こんにちはカレリーナと申します。

リーズスペースでタマオさんが『生きるとは何か』の投稿に触発されまして今回『死ぬとは何か』について自分なりの想いを書きたいと思います。

まず生きるとは何かを考える時に、
やはり『 死ぬとは』何かを考えなければ『生きるとは』何かの答えには行き着かないのでは無いかと思い、今回『死ぬとは』何かについて自分の想いを伝えていきたいと思います

死を語る上で死を説明しているのはまず宗教なのでしょう。
それと医学的、科学的にも死について探求しています。
あと哲学者もそうなのでしょう。。

死とは何なのでしょう?
ある人は死とは無であるという人も居ます、ある人は死とは生理現象と一緒でゲップやオナラが出るのと一緒だとか、
死とは夢を見ないで寝ている状態なのだとか、
またある人は、死とはあの世が有り、死んだ後に死後の世界に帰るのだとか、
そもそも死について語ること自体が愚かな事なのだとか、
本当に色々な意見が有ります。

果たして死とは?何の意味を持つのでしょうか?
生きとし生けるもの全てに終わりがある。
死があって生があり生があり死がある
なぜ生きるのか?
なぜ死ぬのかの真理を解き明かさない限りこの答えは出ないのかも知れません。

しかし普遍的なものの中にどうしたって死は存在しています。
どこに逃げようが『死』は常に付きまとって来ます。
人生の中で
死後の世界を信じるか、信じないかによってこの人生に対しての世界観が大きく変わってくると思います。

勿論、私もあなたも周りの家族も仲間も虫も石にも太陽にも山にも川にもこの地球や空気でさえも終わりはいつか必ずくるし、
そこに『死』『終わり』は必ず来るはずです。
今ここに有る全てのもはいつか必ず存在しなくなるんです。

自分だけ死なないなんてあり得ないし、例えトランスヒューマニズムがこの世界を支配しようと
生きとし生けるもの、全てに死が存在する。

そこでなぜ終わりがあるのか?
逆に言えばなぜ終わりがなくてならないのか?

死は作られたのか?
もしそうならその意味は何なのか?
逆に言えば真の永遠はあるのか?

色々と考えると『死』をどう捉えたらいいのか?
が今の所の私達の限界なのかもしれません。

そこで考えるのは
やはり
死は自分を通してでしか本当の意味での死を感じれないと言う事なのでは無いでしょうか。

しかし人間には理性的に物事を考える事が出来てしまいます。
この『死』についてアウトプット出来る生命体は地球の中では私達人類のみです。

そこで、もし仮に死が『無』だとして考えた時にこの只今この時点で流れてる『時』の意味をどう捉えたらいいのか?どう説明すればいいのか?

なぜ今この事について考えてるのかさえも意味を無くす事になるのではないか?

死が自分自身の中の全ての『終わり』だとすると、
なぜ私が今リーズスペースに投稿するのか?
とか、
なぜ生きた証を残したがるのか?
なぜ色々な経験や色々な事を学び色々な人達と出会い関わるのか?とか、
それが死後『無』のみが存在する世界にされてしまうと今までの事柄の全ての意味を無くすと思うんです。

要するにこの世に1時間生きようがこの世で10億年生きようが、子供を何人も作って自分の遺伝子をこの世界に残そうが、全ての結果や全ての物ごとや現象が『結果』無とするなら全ての存在や存在意義などは意味を持たなくなる。

もっと言うなら100万人殺そうが100万人救おうがどうでも良くなると思うのです。
善も悪も何もかも今まで見てきてきた事や、学んだ事や、
経験した事や成長や発展、失敗や成功なんかも何の意味も持たなくなる。
もし結果を『無』とするなら。そうなる。
つまり何が言いたいかと言いますとね、
死に対しての結果が『無』の発想ほど人を切なくさせ、虚無感にさせ、希望や夢さえも虚しくさせる。
この世界に生きてる事自体が、死ぬまでのただの暇つぶしに過ぎなくなる。

この世界があろうがなかろうが結果が『無』である限り全ての意味を捨てる事になる。

『この世限り』の人生と考える事は自由では有りますが
もしその考えが仮に世界に蔓延したらどうなるか、
みんな生に執着し始めるはずです。生きることにこだわる。
それか極端に死に対して恐怖を与えたり恐怖を刷り込ませたりする。
死を悪として考える。
自然の側から見たら死ななくてはならない人をチューブに繋ぎ長生きさせたりとか。
冷凍保存して未来に希望を託すとか。
保身に走る人も勿論出てきます。
麻薬や酒や快楽に溺れる人も出るでしょう。
生きる事こそが全てになる。
死と生の繋がりを遮断する。
死があっての生のはずなのに。
不老不死を真面目に考え始める。
優生学や無神論も盛り上がる

生きる事以上の価値を見出せなくる。

いかに死ぬかよりいかに生きるかに重きを置くようになる。
死を脅威と感じ死を敵として見る人もいる。
だから世界を俯瞰で見れなくなる。
拝金主義や刹那主義、個人主義が常態化したり、生きる事にこだわるが故に人を騙したり、神秘主義が否定されたり、共産主義が流行りだす。差別したり、人を傷つける事さえ厭わない人さえ出てくる。
自然に対しても挑戦し始める、調和を拒み始める。
人間が人間をランク付けして搾取して支配し始める。

特に日本は戦後、唯物論的な科学万能主義者がリードしすぎてて、
科学で立証出来ないものは『判らないが』答えでは無く『全て嘘』である。がまかり通る世界になってしまった。
エビデンス社会。

これはもう今の時点では思想の問題なんだと思ってます。

要は人類は文明を築き上げて以来、常にどの思想が良いのか悪いのかを考えている。
何が人類や自然にとってより良い思想なのか。

そこで個人的にですが何が普遍的で世界を平和にする思想なのかを私自身、探求しております。

それはまずどういうことかと言いますと
人類や自然にとって、普遍的である事、寛容であり公平てある事、限りなく優しい事、そして何よりもそれが究極的にポジティブである事が最も優れている思想なのでは無いかと私は思うわけです。
そこで私は仏教的な要素やアミニズム的な思想が、私に多大に影響を与えているのでは無いかと思っております。

ここで一度整理しておきたいと思います。

死後の世界を信じない、
死んだら『無』になると思って生きてる人はそもそもなぜ勉強するのかを知りたい。
なぜチャレンジするのかも知りたい。
なぜ綺麗な景色を見に行くのかも知りたい。
恋や結婚をして家庭を築くのかを知りたい。なぜもっと自分よがりに生きないのかも知りたい。あらゆる物に執着しないのかも知りたい。
いつか必ず全てが結果『無に』なるのに。

今死のうが、100年後死のうが、100人レイプしようが結果『無』とするなら何も変わらないのに。
この『死とは何か』は死の先にあるモノを語らい無い限り語れないのかもしれませんけどね。
自分自身の人生にとってこの問題は
とても大切なところなんです。
まあただの信仰ですけどね^_^
多分生きる上で自分自身1番のポイントしているとこなのかもしれません。

例えば
自分自信、死んだら無だと考えていたとするならば
きっと私は今よりももっと不真面目に、ルールの事は基本考えずに、自分がいかに生き長らえるかとか、優位に立てるか、自分がいかに良い思いをするかを第一に考えるのかも知れません。
他人のことなんか考えずに自分が得をするか損をするのかの付き合いを追求するのかもしれない。

もし私がたまたま障害を持ったまま生まれたとして、死後を『無』の世界だと信じるのなら、きっと絶望して死を選ぶでしょう。
ただ単についていない人生でコレッポチの価値のない人生だと思いながら。
そう考えるとヘレンケラーなんて最悪で救いようもない人生だったはずです。

物事をどう解釈するかそれが私の中で常に最重要課題になっています。
少しでも自分がポジティブに爽やかになれる事を願いながら何時も自分自信に問いかけています。

死後の世界のある確率は貴方も私も50%

貴方は『死』をどう解釈しますか?

もし死後『無』だとするならば
きっと私はこの世界全てに絶望してしまうのかもしれない