多摩川を下る 5日目「小作の堰から八高線の鉄橋まで 」
テントの中から顔を出し、朝の空気を吸う。
快晴。太陽が上がり始め暖かくなってきた。
緑が濃くのどかな風景の中、簡単な朝飯をコンロで作り、道具を撤収し出発。
羽村の堰の手前まで順調に進む。
堰が近づくとだんだん川幅が狭くなってきた、気づいたら川の両岸におびただしい程の釣り人が群がって釣り糸を垂れているのが見える。
川幅が狭いのでどう考えても釣り糸とバッティングする。降りて歩こうにもここは河川敷がなく両岸が掘りのようになっていて、狭い水辺は釣り人で埋まっている。
「すいませ〜ん、ちょっと通して下さ〜い」会釈しながら水路を通る。
「ちっ」「じゃまだよ、じゃま!!」「なんだよ、サカナ逃げちまうじゃねーかよ」「こんな所でカヌー乗ってんじゃないよ!!」
オッさん達からの総バッシングにあう。
そう言われても通るしかない。
羽村の堰の脇をカヌーを担いで突破。そして堰の下に到着し、カヌーを置いて、今度は荷物を担ぎに往復する。荷物が多すぎるし、足場もわるいので一度に全部は担げない。二往復してようやく越える。
堰を下り、よし、カヌーに乗るぞ!と思ったらほとんど水がない!!
これではカヌーの腹が水底について進む事が出来ない。
仕方ないので、ズルズル引きずって進む、さらに行くともっと水が少なくなり、完全に水がなくなってしまった。
多摩川が終わった。
水干で生まれた水はもうここには流れていない。
羽村堰は玉川上水…しいては東京の水道の水を取水してる堰で、多摩川の水は一滴残らず東京の人達の飲み水になってしまったようだ。
水がない状態でカヌーを引きずったら壊れそうなので、担いで進むが、荷物も重く、全くもって進まない。
水が無くなって、もうこれは多摩川と言えるのだろうか?
カヌーで進めないなら、もうこのままこの旅は終えていいんじゃないだろうか?
半ばやけくそな気持ちでしばらく歩く。暑いし重いし、ほんとシンドイ。
いくつかの用水路の放流などがあり少しづつ水が増えていく。
でもこれ下水なのか?この辺りの川の雰囲気は住宅地のなかでブロックに囲まれ生活排水で出来た川のように感じる。
ようやくカヌーを浮かべられるレベルまで水が増えたので、カヌーに乗る事ができた。
かなりここまで来るのに時間がかかった。もう昼過ぎだ。今日は暑くて汗だくである。
カヌーを漕ぐのは歩くのに比べたら100倍楽だ。でもなかなか進まない。
水量は細く川幅も狭い。水の流れも悪い。
パドルで一生懸命漕ぐ。すぐに川底にあたり歩いて引きずる。やはり暑い。その繰り返しだ。
さっきから嫌な事ばかりで多摩川が嫌いになってきた。
川が嫌いになりかけたが、水量はだんだんと増え、流れも出てきて乗りやすくなってきた。それにつれて気分も良くなってくる。
気づけば鼻歌など歌いながら漕いでいる。
我ながら気楽な性格だと呆れる。
風景もだんだん両岸が広くなり広々としてきた。そしてなんといえば良いのか、小さなグランドキャニオンのような風景になってきた。
河原が完全に赤茶色の切り立った崖のようになり、無数の流路がその崖を侵食して複雑な迷路を創りだし、水路が分かれたり合流したりしている。不思議な風景でテンションが上がる。
しかし、この日は歩きによるタイムロスが大きく、少し進んだところで日が傾いてきたので、ここでビバークする事に決めた。
この風景の中で一泊したかったというのもある。近くにはローカル線かな、二両程の鉄道が走っている鉄橋がある。
実は鉄道マニアな僕はすぐにこれは八高線だという事がわかった。
八王子から高崎までの電化もされていないローカル線である。
ここだけの話、実は乗り鉄の僕はわざわざこの線を乗りに一日の大半を費やした事もある。
近くで鉄道を眺めたいので、鉄橋の側にテントを張る。
不思議な風景の中、この感動を誰かに伝えたくテンションが上がってるので、八王子に住む親友に連絡する。
1時間後に酒と高性能アウトドアコンロを持って高校の同級生でかつて一緒にバンドをやっていたMK君がスクーターでやって来た。
彼は無類のアウトドア好きなので仕事明けにも関わらずすっ飛んで来てくれた。
予想通り、この風景をみてテンションが上がっている。早速酒盛りが始まり、そこら辺の流木を集めて火を起こしキャンプファイヤーが始まった。
彼とはテント一つで四国旅行をした仲で、その時も毎日こういう風にして浜とか河原に寝泊まりしていたっけ。店で買った魚や肉をそこらへんに転がっている棒に突き刺し、焚き火で焼いて食べるというワイルドスタイルな毎日だった。
この日は深夜まで飲み明かした。
終わりよければ全てよし。楽しい一日だった。ここで締めたい所だが……
実は恐怖の、後日談があるのだ……
八高線正面衝突で調べてみて欲しい。
帰って来てからこの文章を作るためにネットで検索していたら、驚愕の事実を知り背筋が凍りついた。
実は僕らが馬鹿騒ぎして寝泊まりしたポイントは終戦直後に列車の正面衝突事故がおきた事故現場で、死者・行方不明者合わせて124名というとんでもない大惨事の起こった場所だったのだ。
なんでも事故後、動かせなくなった列車を川に落っことし、今でも川の水が減った時、川底から当時の列車の残骸が顔を出すらしい。
いや、ていうか、橋の近くの水面に謎の鉄の物体があったのを、今思い出した!あれか!
「なんだこれ?」とか言いながら乗っかって遊んでたぞ!!
確認のため急いでこの夜の写真を引っ張りだしてみた所、焚き火にケツを当ててる写真とかロクでもないものしか残されていない。相当酔っ払っていたらしい。
こんな馬鹿者達にはさすがの幽霊も呆れたのだろう、全くイヤな気配は感じず、満ち足りた気分で夜を過ごしたのだった。
しかしこんな所で寝泊まりなんて知っていたら絶対出来ない。そういえば、夜中テントの外でなんかへんな物音がしていたような気がしないでもない……知らないって凄い事なのだ。
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