2010年代を振り返って 前編 震災からの田舎デビュー
早いもので今年も終わってしまいます!
いやぁ〜歳を取ると何でこんなに一年経つのが早いのだろう…
とにかく今年は2019年!という事は今年が終わると’10年代も終わり。
思いおこせば、2010年代は個人的には激動の10年でありました。
しごく個人的な形になりますが僕的’10年代総括をしてみたいと思います。
2010年代は結婚し子供が生まれ、それまでのライフスタイルが根底から変わり、家族の為に時間を使うようになった10年でした。
2010年
この時はまだ東京に住んでました。バーで深夜働いていた時代です。様々な人と毎晩話し、酒を飲んでいました。
刺激的な毎日でしたが、子供は産まれたばかりで家庭生活(育児)との両立が大変で、常に睡眠不足と飲み過ぎからくる気怠さと戦っていました。
休日は田舎暮らしをしたいという妻の希望で下見を兼ねて南の方へ旅行に良く行きました。
この年のトピックはiPhone &iPadでしょう。
2008年に発表されたiPhoneは買いませんでしたが、常にネットで情報をチェックして注目していました。
そんな中発売されたiPadは新しもの好きの近所のマスターの所で実機を触らせてもらい、音楽アプリのあまりの面白さに「これは楽器として使える!」
と発売から1ヶ月後くらいに衝動買してしまいました。
実際は音楽にはあまり使われずゲームや漫画やネットサーフィンばかりやっていましたが…
でも歌詞を作るのには大活躍し、ライブの時は、生ギター1本にiPadを見ながら演奏するという、アナログなんだかハイテクなんだかわからない状態でやってました。
まぁとにかく、iPadとiOSの衝撃は半端無かったですね。
これを弄ってると新しい時代の幕開けな気分に浸れました。
ハイテク系の業界の人なんかとは、もうiPhoneやiOSの話しばっかりして、この波に乗り遅れるなという感じでした。
2011年
激動の年。もはやこの年は「大震災」を抜きにして語れません。
子育てしながら深夜の水商売をする事は、やはり無理があり、妻の育児ストレスはMaxに。
「家族を取るか、仕事を取るかどっちかにしてくれ」と、実家に帰ってしまいます。
僕は悩んだ末に、友人と作り上げたバーを辞め、家族をとりました。
それとともに子育ては田舎でしたいという妻の意思を尊重し、東京のアパートを引き払い3月から関東の海辺の町で妻の実家にやっかいになりながら田舎暮らしの住処を探し始めました。
そんな中起こったのが3.11の大震災でした。
今でもあの日のことを細かく覚えてます。朝から何をしたか、あの地震の瞬間、そしてその後の混乱。
当時妻の実家、海沿いの街にいたのですが、地震の瞬間はシマムラの駐車場で妻の買い物を待ってました。
クルマはボールの様に跳ね、店の大きなショーウィンドウのガラスは砕け散りました。
急いで実家に車で帰りますが、道々の塀は崩れ落ち、空には遠くの大工場群からキノコ型の巨大な噴煙が上がりました。
家の中は食器棚等が倒れガラスが飛び散り、たびたびの余震で中に入れる状態じゃないので、車庫で一夜を過ごしました。
一晩中海の方からは超低音の地鳴りのようなものが聞こえ余震が続きました。
実家は遠くまで見渡せる野原にあるのですが、大きな余震が起きたとき、魚がピクピク跳ねるように地面が波打つのが見え、
なるほど、だから昔の人は地震は大ナマズが起こすと考えたのかと感心しました。
近所の空き地には津波から避難してきた海辺の人達が集まっていました。
一夜明け、余震も収まったので、屋根に登って崩れた屋根瓦を片付けていると電話がなり、母からでした。
僕の母親は昔反原発運動をやっていた事もあり、独自の情報網から福島第一原発がメルトダウンしかけている事を教えてくれました。茨城は近いから逃げた方がいいとの事。
そんな馬鹿な、と思っていたら、ニュースで原発が爆発している映像が流れ、頭が真っ白になりました。
気分を落ち着かせようと家族3人で風呂に入りましたが、なんだか現実感がなく、あの映像が頭にこびりつき、メルトダウンした事実に生きた心地がしません。
イギリスの漫画「風に吹かれて」の最後のシーンが思い浮かび、この子の為にもカッコ悪くても生き延びようと決心しました。
っていうのは自分を納得させる為の理由で、ただ怖くて逃げ出したかっただけなような気がする。
家の片付けや屋根の補修も終わってなくて申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、妻の両親に謝り、その日の夜のうちに兵庫の親戚の家に行くため車で出発する事にしました。
夜のNHKニュースではこの爆発は水素爆発によるもので放射能漏れは大したことないと言い、
お義父さんにも「もうちょい様子見た方がいいんじゃないか」と言われましたが、
僕は昔からメディアも政府も信用していなかったので「もし大した事なかったらすぐ帰って来ます」と言って海辺の町をあとにしました。
自分達だけ安全な所に行く事が凄く申し訳なく、妻にも妻の両親にも本当に悪いことをしたと今でも思います。
そして、兵庫の親戚の家にしばらくやっかいになった後、アパートに引っ越し、田舎の物件を探し、丹波の山奥に古民家を買い、本格的な田舎暮らしが始まりました。
仕事も辞めたし田舎暮らしが出来れば何処でも良かったとはいえ、まさか関西の山奥に住む事なるとは夢にも思いませんでした。
言葉や文化の違いもあり、田舎暮らしの苦労等色々あるのですが、これは今度ゆっくり書きたいと思います。
始めは仕事の方で苦労し、家具工場に勤めますが不器用な僕には全く合わず苦労の連続…結局その年の暮れにその仕事は辞め、暗い年の瀬になりました。
この年は大震災と原発事故により、僕もそうだが、日本全体が大揺れに揺れた時期だった。ネットは予言や放射能の記事であふれ、何を信じていいのか、どう生きたら良いのかの常識がひっくり返ったかのような一年だったと思います。
2012年
この年は失業した状態で新年を迎えました。
妻のお腹の中には二人目の赤ちゃんがいて、つわりもひどくなり、今考えるとなかなか厳しい状況でした。
なんとか正月明けには新しい職を見つけ、電器屋の販売員として働き出しました。
毎日林道の様な山道を走り隣街まで車で通勤し、冬は雪が深くて大変でしたが、頭文字Dの様なドライブが楽しめ、一年経つ頃には全てのコーナーが頭に叩き込まれ高速で峠道を駆け抜けていました。
二人目も無事生まれ、生活はカツカツだったけど、畑も始め、忙しくて体力的には大変ながらも田舎暮らしを楽しみ、タバコも辞めすっかり健康的になりました。
世の中は震災のドタバタも収まりつつあり、第二次安倍政権の3本の矢の経済政策もはじまり、大阪に出ると元気のいい街の活気が感じられました。
あと前年の秋に発売されたiPhone4sの影響もあり、スマホ革命が大衆の隅々まで拡大した一年でした。
僕は家電量販店の携帯コーナー担当だったのですが、田舎のおじいちゃんおばあちゃんまでもスマホが飛ぶように売れました。
音楽の方は邦楽に興味が出てサカナクションを良く聴いてました。
2013年
この年からリサイクルショップで正社員として働き始めます。
実はこの歳になるまで正社員として働いた事がなく、明日の事を心配せずに暮らしていけるってのはなんて楽なんだろうとつくづく思いました。
仕事の方は自分の裁量で出来る事が多く、上手くやればゴミが結構なお金に化ける事もあり、宝探しのような、深夜のバーとは違った楽しさを感じました。でもお客さんが多くて忙しく家具など重い物を運ぶ事も多くて結構体力を使います。
なんでも買い取るので査定の事など覚える事も多くて研修も多く、子育てや畑もあり大忙しの毎日で、あっという間に一年が過ぎました。
家族は丹波の生活にも馴染み、特に子供は溶け込むのが早くいつの間にやら丹波の言葉をしゃべっていました。
正直、忙しすぎて世の中の事はよくわからなかった一年なのですが、丹波の田舎では、三本の矢の経済政策の恩恵など皆無で、お金に困ってる人が多いのか買取の依頼が多く、また少しでも安い物を求めて服には主婦が、家具には家族が、家電には男どもが群がり、リサイクルショップは大繁盛でした。
中編につづく
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