沖縄へいったよ

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こんなブログの存在など忘れ生活していたが、久しぶりにやったインターネットで東京キッドの水道橋博士のブログを読んでいるうちに思い出したのであった。
もうリーダーズのルールも忘れたし、一緒にやっていた同志も完全に存在を忘れてるようなので、これからは、ひどく個人的な僕の日記的なブログにしていこうと勝手に決めた。そうゆうことでよろしく。

先日僕は沖縄から帰ってきた。沖縄には2週間ほどいた。
沖縄でなにしていたかというと、前半戦は夜遊び。後半戦は反対運動であった。
なんでそんな事をしたのかというと、夏に仕事を辞め、ぶらぶらしてた僕を母が見かね、「沖縄の辺野古でも行ってみなさい」と言ったからだ。辺野古とはアメリカの海上基地の予定地となってる、浜辺の小さい町で去年から基地建設反対の座り込み運動をやっている場所である。
僕は正直言って反対運動とか座り込みとかその言葉自体のイメージでもって拒絶反応を起こしてしまうタイプで、デモ行進とかに喜んで参加する母を幼少時代から冷ややかな目で見てきたものなのだが、沖縄という響きに負けてしまい、「まぁ、海で泳いで、沖縄料理でも食べて帰ってくればいいのか」などど、安易に飛行機に乗り込んでしまった。
実に書きにくいことなのだが、那覇で遊ぶことも無くなったので、「そろそろ辺野古でも行くか」という感じで僕はテント村を訪れたのだった。

だが予想に反して、辺野古での体験はエキセントリックで面白く、勉強になった。

僕は歴史が好きで、昔の日本の事や、第二次世界大戦の話など、結構興味があるのだが、政治については全く無関心で、投票にも行った事がないし、自分にはまるで関係ない世界だと思ってる。
だから、自衛隊やアメリカについてだとか左翼や右翼については発言するするこなどないし、たいした考えも意見も持ってない。けど沖縄の悲しい歴史や横暴なアメリカのことは知っている。

沖縄の人々はおおらかだった。那覇で行った三味線の店では買う気のない僕にも店主が「お兄さんもせっかくだから弾いていきな」と三味線の稽古をつけてくれた。一時間ばかし練習していると、手ぶらで来た様々の年齢層の男女が店に遊びに来て、店にある楽器をめいめい手にとって店主を交えて大合唱が始まった。
店主も商売っ気が全然ない感じで三味線を弾いて歌っていられればそれで幸せ、という感じで、そのお店には、楽器の相談だけではなく、歌の相談に来ている人もいて、お金を取るわけでもないのに、こうやって声を出したらいいのサと店主は大声を出して歌い、相談に乗っていた。東京ではまずこんな夢のような楽器屋はないだろうなと思いながら、僕は三味線を弾いていた。

沖縄の人は反戦とか反米は言わない(まぁそれはこっちも同じだけど)あまり口でものを語ろうとはしない。なにも言わず、なにも説明せず、僕をいろんなところに連れて行ってくれた。
辺野古に着いたとき、ワケのわからないうちに小さいボートで海に連れて行かれた。波が体にかかり、小さい船はよく揺れるので、気持ち悪くなった。ただエメラルドブルーの海はひたすらきれいで、すぐ近くの海を水陸両用戦車が走っていった。
金武のバーに連れて行かれた(僕が行きたいと言ったのだが)メニューは英語とドルで、黒人が一杯いて殺気立っていた。スピーカーから鳴り響くラップは全然低音がなくていい音だった。日本人の娼婦がたくさんいて、僕には目もくれなかった。
やんばる(北部の山間)に連れて行かれた、山羊料理を食べに。一人一芸だぞと言われ、日本語にはとても聞こえない、沖縄語を話す人々の前で本州のみんなとカントリーロードを演った。一度も名前を自己紹介することなく、みなうち解け、夜遅くまでのどんちゃん騒ぎとなった。沖縄の古くからの歌や踊りを初めて目の前で見た。
結局向こうでは僕は全てにおいて見てきただけだった、誰にも、だからアメリカが悪いんだとか、ヤマトの連中がとか、そんな考えを説かれる事はなかった。まあ僕という人間を見てそういう難しい話はわかりそうもないナと、思われてただけかもしれないけど。
僕は意外とむこうではいろいろと仕事を手伝った、基地反対の看板を町に貼り付けたりしていた。ゆったりとしたリズムで毎日が過ぎていったが、とても充実した日々だった。

沖縄さいこ~!!